長州路(2019年の旅) その12 「龍馬と晋作 二人の英雄を下関に訪ねる旅」

今日は体調がすぐれなかったので、ここからすぐにホテルに引き返したのだが、体調が普通であれば、これから坂本龍馬の下関ゆかりの地や、高杉晋作との交流の旧跡地を訪ねたかった。


実現できなかったが、ここからは「龍馬と晋作 二人の英雄を下関に訪ねる旅」となる。





赤枠で示した、伊藤助太夫邸跡、入江和作邸跡、白石正一郎邸跡、青春交響の塔をネット上で訪ねてみた。


まず、伊藤助太夫邸跡である。





もはや、説名看板等が置かれているだけの地である。


伊藤助太夫は長府藩領下関の本陣主で大年寄、政財界に顔が広くて龍馬の様々な依頼に応え、土佐商会の馬関交易にも関与した。


伊藤家は江戸時代を通じてオランダ商館長が逗留し、対馬藩を介しての朝鮮交易にも関わりがあったといわれている。


1865年以来龍馬の止宿先となり、1867年の春には下関居住を決めた龍馬に、自宅の一室である自然堂を提供し、ここが愛妻お龍との生活の場となった。


龍馬は伊藤家で髪を結ってもらう際に「唐人の寝言」という唄をうたっていたが、この唄は現在も伊藤家に伝わっている。


また、伊藤家で催された歌会にも夫婦で参加し、龍馬の和歌が会中で2位となったが、親友の三吉慎蔵もこの歌会に参加と推定されている。


夫婦で巌流島に渡って花火を上げたことや、龍馬が下関の遊郭街稲荷町から朝帰りして夫婦喧嘩したことなども伝わっている。


龍馬夫婦は幕末の大変な時代の中で、けっこう人生を楽しんでいたようである。


次に、入江和作邸跡である。





ここも、説名看板等が置かれているだけの地である。


入江和作は奈良屋と称して酢の醸造業を営んだ豪商で、高杉晋作や奇兵隊などの活動を物心両面から支えた一人である。


勤皇の志士たちの信頼も厚く、18655月に薩長同盟締結に向けて下関を訪れた坂本龍馬が最初に訪ねた先がこの家である。


その次に白石正一郎邸跡である。





白石正一郎については既に前述したので、ここでは特に記さないが、土佐を脱藩した龍馬は、最初に白石邸を目指したといわれており、その後小倉戦争の際には、龍馬は高杉晋作とともに白石邸を訪ねたという。


最後に、青春交響の塔である。





この塔は2003年に、18676月の小倉戦争を共に戦った高杉晋作と坂本龍馬の友情のモニュメントとして、関門海峡を望める場所に建立された。


ここ下関はまぎれもなく維新発祥の地で、新しい時代の幕開けを共に夢見ながら、新時代の誕生を見ることなく逝った高杉晋作と坂本龍馬の友情と高貴な魂が、ここには永遠に眠っているのである。


 下関で見たいことやりたいことを十分果たしたので、安心してこの地を去れる。

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