謎の海洋民族オホーツク人とオホーツク文化を訪ねる旅その4 声問川にて
稚内には抜海岬、ノシャップ岬、声問岬、宗谷岬という4ケ所の岬がある。すでに2ケ所を見たので、今度は3ケ所目の声問岬を目指す。
道道238号線を宗谷岬に向かって15〜16km程走ると、「声問川」の大きな看板が目に飛び込んで来た。道の左手には声問橋と書かれた背の高い看板がある。
道道238号線を宗谷岬に向かって15〜16km程走ると、「声問川」の大きな看板が目に飛び込んで来た。道の左手には声問橋と書かれた背の高い看板がある。
司馬遼太郎は旅に出る前に、飽きるほど長い時間、旅する土地の地図に見入るという行為をする。
すると、その土地の山や川や風景の具体的な形が見えてくるという。
それを真似て前日、国土地理院発行の「稚内5万分の1地形図」を見飽きるまで眺めてみた。
やはり、司馬遼太郎が「オホーツク街道」で書いたようなことに気ずく。
地図によって声問のあたりをみると、背後に大沼があって四方から細流を集めている。その大沼から声問川が海に向かってながれているために流路はごくみじかい。沼あり、湿原あり、海ありという声問の自然は、古代の採集生活にとっていい場所で、従って遺跡も重層している。
車を道路脇に留め、遺跡が出土した声問橋下の川辺に降りてみた。
この川の中に入って川底をすくえば、遺跡の一つや二つはすぐ出てくるのだろう。この地に、縄文人もオホーツク人もアイヌ人も居を作り、狩猟採集生活を営んでいた。
ちなみに日本の文化の歴史と北海道そしてオホーツク・北海道東部地域の旧石器以降の文化史の流れを年表に整理したものがあるのでここに掲載してみた。
オホーツク文化が北海道のオホーツク海沿岸を中心として栄えたのは日本の歴史では古墳・奈良時代から平安時代末までの期間。日本ではようやく国の形が出来上がり、やがて天皇家とそれを取り巻く貴族たちによる王朝文化へと発展して行った時代。
その頃、オホーツク・北海道東部地域では、オホーツク海沿岸の豊かな海産物を食料としてオホーツク文化が栄えた。
オホーツク人は基本的には海に依存して暮らしており、北海道北部と樺太では漁業、北海道東部では海獣狩猟に重きを置いた。
秋にホッケ、冬にタラ、春にはニシンを、網を用いて大量に漁獲した。
声問川河口風景、古のオホーツク人の出航基地の一つ
アザラシ、オットセイ、トド、アシカなどの海獣は冬に狩猟した。
またオホーツク人は舟を操り、捕鯨を行っていたこともわかっている。
陸の動物では豚と犬を飼い、食用にしていた。また、熊(ヒグマ)をはじめとして様々な動物を狩った。
毛皮獣も狩ったが、毛皮を交易する目的での狩りだった。
声問川河口から声問橋を望む。集落はこのあたりにもあったかも・・。
集落は海岸のそばに置かれた。
住居は竪穴式で、オホーツク人は、秋から春までは何十人も収容できる大型の住居に住み、共同で大規模な漁を営み、漁が低調になる夏には各地の海岸に分散し、一つの核家族単位で小型の住居で暮らしたと考えられている。
残念ながら時間の関係で、肝心の声問岬には今回は行けなかった。
稚内の4つの岬の中で声問岬まで行く観光客は殆どいないそうで、昔のままの形を残していて、ずっといても飽きがこない素敵な声問岬には平成24年度に来ようと心に決めた。
次の目的地は、写真真ん中左端に位置する宗谷岬である。
ここで、問題です。
声問の語源はアイヌ語ですが、意味は次のどれでしょう。番号で答えてください。
① 語源はコイ・トゥイェで浪の大きなところ
② 語源はコイ・トゥイェで浪のために砂場が決潰[けっかい]するところ
③ 語源はコエ・トェイで浪で声が聞こえなくなるところ
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