四国のみち その13  天守に入るまで

 本丸広場に入ってきたが、広場からは大天守が遠望できる。
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 更に大天守を目指して本丸広場を歩いて行くが、ここで下図により天守の概要を一通り見てみる。
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 松山城天守は連立式天守となっている。
これは城郭の象徴である天守の構成分類の一つで、大天守・小天守・櫓を四方に配置し、渡櫓でつなぐ形式をいう。
建物で仕切られた中庭ができるのが特徴で、厳重な防備手法であるため天守防衛の究極の姿であるとも言われており、現存12天守の中では、姫路城と同じ構成となっている。
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 ここでビデオカメラを望遠にして大天守を遠望してみると、最上階に見学者が大勢いて、こちらを見ているのが見えた。
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 本丸広場に小学生の団体が一組いて、人数も100人程度はいたようなので、彼らと一緒に行動することを避けて、彼らの後からのんびりと本丸を歩くことにした。
 本丸広場でアイスを食べたりしながらブラブラと時間を過ごし、彼らから15分くらい後から天守閣に向かって歩き始めた。
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ここは天守閣直下で、上を見上げると三つの建物が見えるが、真ん中が大天守、左が小天守、右が一の門南櫓である。
これから天守に入るが、その前に重要文化財となっている三つの門を潜って進んでいく。
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この門が1ノ門である。
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階段を上がって左に曲がると、今度は薬医門の形式の二ノ門である。
薬医門の謂れだが、一説には矢の攻撃を食い止める矢食いからきたとか、またかつて医者の門として使われたことから来たとも言われている。
この門の特徴は、屋根の中心の棟が前の柱と後ろの柱の中間に位置せずやや前方にくることで、したがって前方の2本の柱が本柱として後方のものよりやや太く、加重を多く支える構造になっている。
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 二ノ門を出て左上を見上げるとこの大天守が見えるが、連立式3重3階地下1階構造の層塔型天守で、高さが20メートルある。
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 大天守の左に、この3ノ門があるが、この門の形式は高麗門である。
高麗門は文禄・慶長の役が行われた1592年から1598年の間に造られ始めた城門で、薬医門を簡略化したもので、屋根を小ぶりにして守備側の死角を減らす工夫が施された。
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 天守へ入る最後の砦がこの筋金門で、門に鉄板が張られていたことからこう呼ばれていた。
 ここを超えると、やっと天守に入れるようである。

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