長州路(2019年の旅) その66 常栄寺に入る
この常栄寺は、午前中の圧巻となった。
常栄寺は臨済宗東福寺派の寺院で、毛利元就が息子隆元の急逝を嘆き、その菩提を弔うために竺雲恵心を開山として創建された。
この寺は雪舟ゆかりの寺でもある。
山門の左手に、雪舟の胸像が立っていた。
寺の現在地は大内政弘別邸跡に創建した妙喜寺に由来していて、大内政弘が当時山口に滞在していた雪舟等楊に庭園の造営を依頼し、雪舟が寺の北側に造営した「雪舟庭」があるので、期待しながら敷地内を歩いて行く。
常栄寺は敷地も広く、寺の造作もたいへん立派である。
この鐘楼門から本堂に入っていく。
ここが本堂で、畳敷きの部屋の中央に仏間を置き、本尊を祀っている。
右方向が雪舟庭であるが、この部屋の床の間に大きな額が置かれていた。
この書を書いたのは、江戸中期の禅僧で臨済宗中興の祖と称される白隠である。
書の和訳も紹介していたので、ここに掲載しておく。
圓頓(えんどん)は、初め実相を縁じ、境に造るに即ち、中にして、真実に不ざるなく、縁を法界にかくれば一念法界、一色一香る 中道に非らざる無く、己界及び仏界、衆生界亦然り、陰入皆な如、苦として捨つ可き無く・・・・・・以下省略
これは、いわゆる「円頓章」といわれるもので、仏教のあらゆる修行の仕方のなかでも、もっともすぐれた修行方法とされる天台の摩訶止観、すなわち円頓止観をもっとも簡単に説明した文章である。
ここには、大乗仏教のさとりの内容が要領よくまとめられており、天台系のどの宗派においても、僧俗ともに朝夕の勤行のおりには必ず読誦しているとのこと。
そして白隠であるが、紹介は簡略にする。
駿河国原宿の長沢家の三男として生まれた白隠は、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて見性体験したが、信濃飯山の正受老人(道鏡慧端)の指導を受けて次の階梯の悟りを得た。
のちに禅修行のやり過ぎで禅病となるが、白幽子という仙人より内観の秘法を授かって回復、その白幽子の机上には「中庸」「老子」「金剛般若経」のみが置かれており、更に修行を進めて42歳の時にコオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成したという。
この経験から、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案して多くの若い修行僧を救った。
地元に帰って布教を続け、曹洞宗や黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。
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