四国のみち その69 六志士の墓

 若宮ガイドは山道を少し上がって、こんもりした森のあたりを指さした。

 

 あの森が三島神社の境内の森で、その右に今月オープンする「雲の上の図書館」があり、その隣に複合福祉施設「YURURIゆすはら」がある。

 

 梼原町の中には建築家で東京大学教授の隈研吾(くまけんご)氏の設計した建物が、梼原町総合庁舎、まちの駅「ゆすはら」、雲の上のギャラリー、雲の上のホテルレストラン、複合福祉施設「YURURIゆすはら」と今まで五か所あったが、彼の設計による6番目の建物が「雲の上の図書館」で、他の施設と同様に、町面積の91%を占める梼原町の森林から切り出された木材を使って作られている。

 

 また道を下って、今度は六志士の墓を見に行く。

 六志士の墓とは、1935年に当時の梼原村が建立した、明治維新の先駆けとなりその命を賭して国事に殉じた六人の志士の分霊の墓である。

 

 六人の志士とは、吉村虎太郎、那須俊平、那須信吾、前田繁馬、中平龍之助、掛橋和泉の六人である。

 

 一番右に、吉村虎太郎の墓があった。

 吉村虎太郎と那須信吾は天誅組の幹部である。

 天誅組は幕末に公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団で、総勢は1000人余で土佐藩や久留米藩の脱藩浪士が指揮し、隊士の主体は十津川郷士で、脱藩浪士の身分は郷士や庄屋、神官、僧侶などであった。

 挙兵直後に八月十八日の政変が起こり、長州藩や攘夷派公卿や浪士達が失脚して攘夷親征を目的とした大和行幸は中止となり、挙兵の大義名分を失った天誅組は暴徒とされ、追討を受け壊滅した。

 彼の辞世の句は「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」である。

 1881年に、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎と共に正四位が贈られた。

 

 吉村虎太郎の墓の隣に、那須信吾の墓がある。

 彼には従四位が贈られている。

 那須信吾は幕末期の土佐藩の郷士で、幼くして父を失い郷士那須俊平の娘婿となる。

 坂本龍馬に深く傾倒して1861年に土佐勤王党に加わり、1862年には安岡嘉助や大石団蔵らと共に、尊王を無視して藩政改革や佐幕を唱える吉田東洋を暗殺して脱藩し、長州に逃れた。

1863年には天誅組の変に参加、軍監を務めるが享年35歳で戦死した。

 那須信吾は武勇に優れた怪力の持ち主で、走ることにおいては馬より速いとまで噂され、身長は六尺(約180cm)近くあって天狗様と称された。

 

 那須信吾の隣が養父那須俊平の墓で、彼には正五位が贈られている。

 生涯を通じて槍術に長けていた俊平は、自らの屋敷の邸内に那須道場を開き多くの人材を育成、六志士のうちの3人である那須信吾、前田繁馬、中平龍之助などを育成した。

 

 前田繁馬と中平龍之助にも正五位が贈られている。

 前田繁馬は土佐脱藩浪士で、那須俊平に師事して武芸を学び、吉村寅太郎が天誅組を結成して決起するとこれに参加したが享年28歳で戦士した。

 中平龍之助は檮原村の地下浪人の家に生まれ、那須俊平に師事して武芸を学んだ。

 脱藩して長州に向かい、中岡慎太郎が隊長を務める忠勇隊に加わった。

1864年7月19日に忠勇隊の一員として禁門の変に参戦し、重傷を負って享年22で自刃した。

 

 最後に掛橋和泉の墓であるが、彼には従五位が贈られている。

 六志士の墓を若宮ガイドの説明で見てきたが、明治維新の背景が少しずつわかりかけてくるような気がしている。

 

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