長州路(2019年の旅) その70 「一の坂川」
長州路は今回が最後である。
昼食後、大内弘世が室町時代の1370年に京都の祇園神社から勧請した八坂神社と、同じく大内弘世が1373年に北野天満宮より勧請を受けて創建した古熊神社をさっと見た。
「長州人の優しさというものは、山口に八街九陌を造った大内弘世やサビエルを保護した義隆などの大内文化を知らなければわからないような気がする。」と司馬さんは「街道をゆく 長州路」で書いていたが、今日はその優しさに触れることが出来、山口の優しさが少しはわかったような一日となった。
最後に、これも大内氏が京都の加茂川に似せて造らせたという「一の坂川」を見て、長州路の旅の最後とした。
山口市は大内氏が造った街で、ここには大内氏の残した文化がそこかしこに残っているが、この一の坂川もその一つである。
見ての通り、そのあたりのどこにもありそうな細流である。
南北朝期に周防・長門の守護職として勢力を確たるものとした大内氏は、京の都に強く魅せられ、館を現在の龍福寺付近に定め、京に模したまちづくりを行った。
またこの川は、国指定天然記念物山口ゲンジボタルの発生地でもある。
山口のゲンジボタルは500年前の室町時代から有名で、室町時代に書かれた文書から、旧暦の4月20日をホタル合戦の日と呼び、ホタルの縁日としてホタルの捕獲を禁止し、また捕獲したホタルを放してやる風習があった。
こんな細流から生まれるゲンジボタルの飛翔は5月下旬~6月上旬が見ごろということで、もしかすると今夜にも見れるかもしれないと思ったが、ここにはあと30分も居ないので、帰ってからネット動画で楽しむことにした。
大内文化漂う一の坂川の畔を、少し歩くことにした。
画面左手に、二日間借りているトヨタビッツが見えている。
ここをのんびり歩いて、右手から聞こえるせせらぎの音を聞いていると、心底心が癒される。
向こうに見える寿橋から、大内文化の残した傑作と言われている一の坂川の景観を見ることにした。
寿橋上から一の坂川上流方向を眺めているが、川の両側が桜並木となっているので、桜の季節がどんなだろうか想像してみた。
今度は一の坂川下流方向の眺めで、この細流が山口の街の中を通っているのである。
京文化に憧れ、加茂川を模して一の坂川を造った大内文化の真髄の流れで、非常に気分のいい風景を造っている。
このような川を市街地の真ん中に残して置くことのできる山口市民の心の広さに敬意を表し、大内文化の遺産にどっぷり浸かりながら帰路とした。
宿に帰ってテレビを見ていたら、一の坂川のホタルが昨日9匹ほど確認できたというニュースが流れていた。
長州は武士というよりも商人の感覚で栄えた藩で、それは大内から毛利へと続いてきた。
そういう感覚の藩が、百姓を搾取し百姓の真似をして生きてきた徳川幕府を倒す勢力の中心となったのも何か納得できるところがある、山口を歩いてそう思い、そう感じた。
これで長州路を終えることにする。
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