吉備王国へのみち その11 備中国分寺
造山古墳を終えて、次に黄☆印の「備中国分寺」に向かった。
ここまで4km程で、車で10分ほどかかって到着した。
備中国分寺は、岡山県総社市にある真言宗御室派の寺院で、山号は日照山、本尊は薬師如来で、奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備中国国分寺の後継寺院にあたる。
田園風景の中に建つ五重塔は吉備路のシンボル的な存在となっていて、塔の高さは34.315メートル、南北朝時代に奈良時代の七重塔(推定高さ50メートル。塔跡が残る)を焼失したのち、1821年(文政4年)に位置を変えて再建を開始し、弘化年間(1844年-1847年)に完成した。
江戸時代後期の様式を濃く残す岡山県内唯一の五重塔で、当初は三重塔で、3層まではケヤキ材、4・5層まではマツ材が主体で、国の重要文化財に指定されている。
なお、創建当初の国分寺跡は現在の国分寺境内と重複していて、寺域は東西160メートル、南北180メートルで、出土した土器などから中世初期まで存続したと推定されている。
備中国分寺の伽藍配置略図を確認すると、創建当初の国分寺は相当大きな建物だったのが判る。
今は当時のものは残ってはいなくて、跡として説明の立札が立っているのみである。
ここは南門跡で、 南端に位置し、間口5間・奥行2間の大きさがあり、天平年間に3間1戸から5間1戸に大改修されている。
中門は間口5間、奥行2間で、全体としては南門を上回る規模の大きさがあり、南門との間には大井戸が見つかっている。
ここは、現在の国分寺山門である。
ここは、現在の国分寺本堂である。
なお国分寺は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院で、天皇を中心とする政治の中枢施設の一つである。
次回は、大和王権時代の吉備王国をいったん置いて、奈良時代以後の吉備国の政治の中心地の姿を見ていく。
この記事へのコメント