歴史クイズ 穴埋めの回答
問題1
鎌倉幕府の支配機構は、鎌倉に中央機関として御家人を組織し統制する( 侍所 )、一般政務や財政事務をつかさどる( 政所 )(はじめは( 公文所 ))、裁判事務を担当する( 問註所 )などが置かれた。原則として各国に1人ずつ置かれ、主として東国出身の有力御家人が任命された守護は、( 大犯三ヵ条 )などの職務を任とし、治安の維持、警察権の行使などにあたった。御家人の中から任命されて全国の荘園や公領に置かれた地頭は、年貢の徴収、納入と土地の管理、治安維持であった。
問題2
京都の朝廷では後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の院政が行われ、広大な荘園を再び手中のまとめ、新たに( 西面の武士 )を置いて軍事力の増強を図るなど朝廷の勢力を挽回しようとする動きが強まった。1221(承久3)年、畿内・西国の武士や大寺院の僧兵などを味方に引き入れて、上皇は北条義時追討の兵をあげた。幕府は義時の子( 泰時 )、弟の時房(ときふさ)らの率いる軍を送った。1ヶ月後戦いは幕府の勝利に終わり、後鳥羽・土御門(つちみかど)・順徳(じゅんとく)の3上皇の配流と仲恭(ちゅうきょう)天皇の廃位が行われた。これを( 承久の乱 )という。乱の後、幕府は皇位の継承に介入し、京都に新しく( 六波羅探題 )をおいて、朝廷の監視、京都内外の警備、西国の統括にあたらせた。
問題3
北条泰時は執権(しっけん)を補佐する( 連署 )を置いて北条氏一族の有力者をあてた。ついで有力な御家人や政務にすぐれた11人を( 評定衆 )に選んで、執権・連署とともに幕府の最高の政務の処理や裁判にあたらせ、合議制にもとづいて政治を行った。また1232(貞永元)年、泰時は( 御成敗式目 )51ヵ条を制定して、広く御家人たちに示した。式目は頼朝以来の先例や道理と呼ばれた武士社会での慣習・道徳にもとづいて、御家人同士や御家人と荘園領主との間の紛争を公平にさばく基準を明らかにしたもので、武家の最初の体系的法典となった。
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