歴史クイズ 穴埋め問題の回答

問題1

平氏政権の全盛も長くは続かず、地方の武士団や都の貴族・大寺院の中には( 平清盛 ) の専制に対する不満がうずまきはじめた。1180(治承4)年、後白河法皇 の皇子の( 以仁王 )と摂津源氏の( 源頼政 )は平氏打倒の兵をあげ、諸国の武士に決起を呼びかけた。これに応じて、伊豆に流されていた( 源頼朝 )や、信濃の木曽谷にかくれていた( 木曽義仲 )などの武士が立ち上がり、内乱が全国的に広まった。

平氏は都を( 福原京 )へと移し、これらの動きに対抗しようとした。しかし、畿内・西国を中心とする大飢饉や清盛の死などによって平氏は敗北し、1185(文治元)年頼朝の命を受けた弟の源範頼(みなもとののりより) ・義経(よしつね)らの軍に攻められ、ついに長門(ながと)の( 壇ノ浦 )で滅亡した。



問題2

13世紀初め、モンゴル高原にチンギス=ハンがあらわれ、モンゴル民族を統一して中央アジアから南ロシアを征服した。チンギス=ハンの孫フビライは、都を大都(北京)に移して国号を元(げん)と定め、高麗(こうらい)を服属させたのち日本に対してたびたび朝貢を強要した。しかし、幕府の執権( 北条時宗 )はこれをしりぞけたので、元は高麗の軍勢とともに、1274(文永11)年対馬(つしま)・壱岐(いき)をおかしたあと九州北部の博多湾に上陸した。幕府は九州地方の御家人を動員した。元軍の集団戦法やすぐれた兵器に対して、日本軍の一騎討戦法はあまり効果をあげず日本軍は苦戦した。しかし元軍も損害が大きく、たまたまおこった暴風雨によってしりぞいた( 文永の役 )。

幕府は再度の襲来にそなえて博多湾沿岸に石塁(せきるい)を構築するとともに、九州地方に所領を持つ御家人に( 異国警護番役 )を課し、九州の要地や長門(ながと)の防備にあたらせた。1281(弘安4)年、元軍は朝鮮半島からの東路軍と中国本土からの江南軍との2軍に分かれ、再び博多湾にせまった。しかし日本軍に上陸を阻まれている間に、今度も大暴風雨がおこって大損害をうけ再び敗退した( 弘安の役 )。この2回にわたる元軍の襲来を元寇(げんこう)(=蒙古襲来(もうこしゅうらい))という。

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