零下10度の世界への旅 中国編16 故宮探訪その4 楽寿堂へ

 珍宝館を出て、養性殿楽寿堂頣和軒と見て回る。

 この3棟の中では、楽寿堂が充実していた。
 (既に見て回った頣和園にも西太后の日常の住まいとして楽寿堂が建設されていた。)

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 楽寿堂は1776年に乾隆帝が建設したが、後には西太后が60歳を過ぎてから居住した。

 楽寿堂の中には、自らも書家が出来るほどの腕前である乾隆帝の数々の書が各部屋を飾っていた。
 
 玉で造られた仏像等の作品群も多数展示されておりここは、まさに宝の山という建物である。
 
 乾隆帝は権力に任せて、欲しいものは何でも手に入れたようである。

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 ここでの一番の宝物は、この「大禹治水玉山」という洪水を治めて帝位についたという禹の治水伝説を一つの玉に掘り込んだ玉の作品。

 清朝の記録では、この巨大な玉の原石は乾隆帝の勅命に より、新疆のミーローター山 から 掘り出された。 重さは100トンもあったとか。

 新疆から北京までの約1万kmの距離を新たに道を開き、河には橋を架け、冬の間に、凍った道を車幅12mもの特大 の運搬車で、数百頭の馬と1000人近い人夫が3年かけて運んだとされている。

 乾隆帝は王宮に伝わる宋代以前の作とされる「大禹治水図」が色あせ劣化したことを惜しみ、中国古代の伝説的な帝王「禹」の治水事業を後世に伝えるために、巨大な玉に治水の物語をそのまま刻ませた。

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 この作品は、乾隆帝が母親の誕生日に贈ったもので、金細工の装飾品の中には多くの宝石類が散りばめられている。
 
西太后は、女真族の出身ながら心は漢民族そのものの心で中国皇帝として君臨した乾隆帝が大好きだった。
 
 自らも、乾隆帝にならいこの建物や頣和園の楽寿堂で書の練習に没頭したと伝えられている。

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