探険家の歴史 第2部 アマゾン河の旅 その6 クスコにて
アマゾン河はイキトスでマラニョン川とウカヤリ川に分かれるとそのあと本流ウカヤリ川はペルー内陸部を南下し、ビルカバンバ山脈の北端で、ウルバンバ川とアブリマック川に別れる。
ウルバンバ川 ↑
クスコはウルバンバ川の上流部に位置する町、そしてそこはアマゾンの源流地でもある。
アマゾン河の旅は、今ようやく、アンデス文明の最後の華とも言える「インカ帝国」の都であったクスコの町に辿り着いた。
クスコの町並み ↑
クスコは標高3,360mの高地に位置する人口3万程の、この国では中程度の都市である。
町の名前「クスコ」は、ケチュア語(Quechua)で、「へそ」を意味する。
この町はタワンティン・スウユ(インカ帝国の正式名称)の首都であり、文化の中心であった。
インカ時代の石畳 ↑
アマゾン河の旅はとうとうここまで来た。正確ではないが、ここからアマゾンの河口部までは6000km位はあるだろう。
アブリマック川の方がより長いので、真の源流地は、もう一つの川を遡らなくてはならない。
この河の旅は、もうすぐ終わりとなる。そして、それを心置きなく終わらせるために、ここクスコでは「インカ帝国」の歴史を少しでも垣間見たいと考えた。
「インカ帝国」について知るには丁度いい参考書がある。少し古く、古典とも言うべき本ではあるが。
僕が大学へ入って間もない頃(暇に任せて古本屋あさりをしていた頃のことだが)、タイトルに惹かれて文庫本等を20冊ほど買ったことがあった。
その中の1冊に、泉靖一の「インカ帝国」という岩波新書本があった。
泉靖一は、今は故人となっている有名な考古学者である。
泉が中学3年の頃、彼の学校に「南米探検家」という肩書きの長いひげを生やした男が来て、講演会を開いた。
その話しのあらすじは彼の記憶には残らなかった。しかし、「南米探検家」が話したアンデスの特異な自然と、そこに栄えたインカ帝国の哀しい末路だけは、彼の心にいつまでも残った。
インカ時代の黄金のマスク ↑
彼はその後、朝鮮の京城大学に進み、さらに東京大学の文化人類学の教授として教鞭を執ることになる。考古学者泉靖一の誕生である。
泉靖一は、まさにインディ・ジョーンズのようだね。
アンデスを探検したいという中学の頃に芽生えた夢は、その後、考古学者となることによって達成されたのだ。(彼のような学者に僕は憧れるね。)
その彼の著書には、東京大学在職中にペルーやボリビアに滞在し、その後、東京大学アンデス学術調査団に加わり、三度に渡ってペルーに出かけたこと、北はエクアドルから南はチリまで3万kmをジープで走り、遺跡発掘等によりこの地の文化の調査を行なったことなどが詳しくまとめられていて、アンデス山中に結実したインカ帝国という実態が、僕の内部に残った。
彼の著書は、僕が高校1年の時にペルー移民100周年事業として開催された「悠久の大インカ展」で、アブリマック川源流部近くにそびえるアンパト山の山頂付近の氷解の中から発見された、あのイケニエにされミイラとなった「美少女フワニータ」に出会った時以来の感動を、僕に与えた。
哀しみの美少女「フワニータ」 ↑
フワニータは選ばれた女性の一人だった。インカ帝国では、10歳くらいになると国中の少女の品定めをおこない、美しく身体の丈夫なものを選び、地方首都の尼僧院に送った。
4年の間、彼女たちは作法と宗教、紡績と料理、そしてチッチャ(この地方の酒、口に含んで醗酵させる。)のかもし方を学んだ。
そして、時には彼女たちの中から、イケニエが選ばれた。フワニータは、そういう少女の一人である。イケニエになることは、この時代は名誉であった。
イケニエにされない大多数の少女は、二回目の品定めにより選ばれると、皇帝から貴族へ側妻として献上された。
他の少数の少女は、太陽の処女として、永遠の処女を守りつつ、太陽の神殿で働いた。
泉靖一の著作には、インカ帝国の政治や文化についても詳しく記述があり、高校時代に抱いていた疑問はすべて解決した。
泉靖一の助けを借りながら、まず、クスコ近くにあるマチュピチュ遺跡から見てまわりたい。
マチュピチュ遺跡です。 ↑
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