探険家の歴史 第2部 アマゾン河の旅 その7 マチュピチュ遺跡にて
ワイナピチュからマチュピチュを遠望 ↑
マチュピチュ遺跡を発見したのは、アメリカのエール大学で考古学を教えていたハイラム・ビンガムである。
旺盛な好奇心を持ったアメリカの青年は、ワイナピチュ(若い峰という意味)やマチュピチュ(年老いた峰という意味)を見上げるマンドル・パンパというウルバンバ川沿いの地に住む一人の男から、峰の近くに埋もれた遺跡があることを聞いた。
彼はウルバンバ川の激流にかかる丸木橋を渡り、対岸の山岳を2時間ほどかけて登り、途中出合った農夫たちから世話してもらった少年をガイドに、「マチュピチュ」遺跡を発見した。
アンデネス(段々畑)です。(じゃがいも・とうもろこしなど植えてた。 200種類もの作物を育てていたとのこと。) ↑
鉄道も無かった時代、1911年のことである。
ウルバンバ川沿いの断崖の上に400年もの間誰の眼にも触れられず眠り続けたインカ帝国の秘都は、こうして再び歴史の中に甦った。
ビンガムはマチュピチュを調査中、人骨を発掘する。しかし、10,000人は住めると思えるマチュピチュ遺跡からは、173体の人骨が発見されただけで、そのうち女性の人骨が150体だったという。
マチュピチュは謎に包まれた遺跡である。ビンガムは発見当時、マチュピチュを、インカ帝国最後の都「ビルカバンバ」だと思っていた。
マチュピチュを誰がどんな目的で建設したのかは、地元のクスコ大学の考古学者の研究から、ほぼ解明されている。
マチュピチュは、インカ帝国に代わりこの地の支配者となったスペイン人支配者が丹念につけていた土地台帳から、インカ帝国第9代パチャクチ(地震のように大改革を行なう賢いインカの意味)皇帝が15世紀の中ごろに建設したものと判明した。
インカ帝国は、このパチャクチの手によって大帝国となるのだが、それ以前はアンデスに散在する部族の一つに過ぎなかった。
彼は長年のライバルだったチャンカ族との死闘で勝利を収めると、その勢力を急速に強めていった。(当時の戦争は、最初が投石器での石の投げ合い、そして、こん棒での殴りあい。これでは、スペイン人に簡単にやられるね。)
荒れ果てたクスコをピューマ(ピューマはパチャクチの権力の象徴であり、彼自身でもある。)の形に似せて再建したのも彼である。
サクサワマンからクスコを遠望 ↑
太陽の神殿を立て、彼以前の祖先のミイラを安置した。また、クスコを望む高台に、サクサワマンの砦建設を着手。サクサワマンの砦はピューマの頭の部分になっている。
完成は息子の時代となった。
この砦の建設は、延べ10,000人の人力で、15年の月日を要したという。
サクサワマン砦の石垣です。 ↑
そして、マチュピチュの建設が始まる。
その建設の目的だが、インカ帝国の創世神話の神殿としての建設であったと言われている。パチャクチは自分のために、またインカ帝国のために、この神殿を創ったのだ。神殿はまた、皇帝の夏宮も兼ねた。
マチュピチュ遺跡の二つの峰の一つであるワイナピチュは、良く見るとピューマそっくりである。ピューマに守られながらマチュピチュは、スペイン人が来るまで、創世神話の神殿としての役割を果たしていた。
右がワイナピチュですが、ピューマに見えませんか ↑
インカ帝国は、パチャクチとその息子のトパ・インカ(熟達の賢者という意味)の2代で、1000倍もの領土拡大をなしとげた。
トパ・インカは、北はエクアドルのキト周辺から南はチリのサンチアゴ周辺まで、広大な土地をインカ帝国の領土とした。南米一の大帝国の誕生である。
彼は、インカ帝国全土にわたって国勢調査を行い、世襲的な族長制を廃止し、末端の行政を根本的に改革した。また、ヤナコーナ(青年の徴用制度)とアクヤクーナ(処女の徴用制度)を設けた。ヤナコーナもアクヤクーナも奴隷であり、所有権は皇帝や貴族に属し、自由は無かった。
トパ・インカはインカの始祖マンコ・カパックにならって実の妹と正式結婚した。彼は85歳まで生き、2人の嫡出皇子と80人の側室生まれの男子と30人の女子をもうけたと伝えられている。
インカ帝国の歴史は、日本の歴史で例えると、織田・豊臣・徳川に比較するとよく理解が出来る。インカ帝国の方が、100年ほど織豊時代より早く歴史に出現するが。
アンデス地方を初めて統一したのはパチャクチ、彼は日本の歴史で言えば織田信長である。その息子トパ・インカは豊臣秀吉にあたる。しかし、徳川家康となるべきワイナ・カパックは、彼自身は徳川家康のように長く治世を行い、インカ帝国の領土も彼の頃に最大とはなっていたが、帝国の最盛期はトパ・インカの死とともに過ぎてしまった。
赤いところがインカの領土、広いと思うか狭いと思うかダネ ↑
落日の帝国は、パチャクチ時代から100年程で、わずか200人弱のスペイン人の手によって滅ぼされるのである。
スペイン兵が迫ることを予期したマチュピチュの住人たちは、神殿に火を放ち、秘都を捨てたのである。太陽の処女たちと神官たちは、マチュピチュと運命を共にした。
このインカの秘都から173体の人骨が発見されただけで、そのうち女性の人骨が150体だったという謎は、こうして生まれたという。
ここから、人骨が発見された。 ↑
エピローグ
インカは文字を持たなかったので、考古学者の学説に頼っているが、最近では、人骨は男女同数だったという説も有力です。でも、僕はハイラム・ヒンガムの説を信じたいね。
この記事へのコメント