潟のみち その16 「木崎村小作争議記念碑」Ⅰ

 「久平橋」の次に、木崎村小作争議の一連の流れの中で木崎農民学校が出来、その跡地に、争議開始50周年の1972年に建立された「木崎村小作争議記念碑」に向かった。
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 地図上では、会津通りと福島潟放水路の交わった黄☆印の地点で、この辺りに木崎農民学校の跡地に建立された「木崎村小作争議記念碑」があるはずだった。

 ところが、いくら探してもそれらしいものは見あたらず、この辺りに建っている民家を訪ねて、ちょうど庭先に出てきた40代くらいの男性に詳しく教えてもらった。
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 この「潟のみち」の参考資料とした「新・にいがた歴史紀行」の案内図が大雑把すぎて、これを頼りにしていては、「木崎村小作争議記念碑」は辿り着けない場所にあった。

 豊栄大橋の傍に「木崎村小作争議記念碑」は無く、そこからさらに進んで、赤☆印の場所にあるという。
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 このように、笠柳橋まで車で走って、ここから更に集落の奥へ進むのである。

 ここまでの道も農道なので随分狭く、おっかなびっくり黄色で塗られた道を走っていると、ここでまた親切な農家の方に出会って、「木崎村小作争議記念碑」の場所と、次に行く「横井の丘ふるさと資料館」を教えて貰い、ついでに車を駐車する場所まで一緒に連れて行ってくれた。
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 この方には、「木崎村小作争議」を起こした先祖の血が濃厚に残っていると感じた、それほど熱い所作があった。

 どうにかこうにかして、「木崎村小作争議記念碑」まで辿り着いた。
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 そこには、満開になったツツジが、鮮やかなピンクの花を咲かせていた。

 木崎村小作争議は、新潟県北蒲原郡木崎村(現・新潟市北区)を中心とする地域で起こった小作争議で、「日本の三大小作争議」の一つとして知られ、また王番田争議(王寺川村を経て現・長岡市)・和田村争議(高田市を経て現・上越市)とともに新潟県の三大小作争議の一つに数えられる。

 新潟県は、県内で産出される米の品質を向上させ、市場での評価を高めるため、1907年より移出米に対する検査を実施し、1916年には生産米検査規則を制定した。

 この制度は、米の販売価格を向上させるため、地主にとってはメリットがあったが、検査のために必要な負担は生産者である小作農にのしかかっていた。

 1922年、県は生産米検査規則を改正し、産米検査をさらに強化した。

 これにより負担が増加した小作農の不満は高まった。

 そのため、北蒲原郡を中心に勢力を拡大していた須貝快天率いる農村革新会は、納める米1俵につき3升の米を負担増の補償として地主たちに要求した。

 地主たちがこの要求を拒否すると、小作農たちは大挙して地主宅に押しかけ、要求をのむように迫ったが、これが「三升米事件」で、木崎村をはじめ県内における小作争議増加のきっかけとなる事件であった。
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 木崎村小作争議は、須貝快天の影響を受けた小作農たちが1922年11月に、村内の笠柳・横井両部落で小作組合を結成し、市島家をはじめとする地主に対して、小作料を2割減免するよう要求したことに始まる。

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