潟のみち その17 「木崎村小作争議記念碑」Ⅱ

 当初、地主たちはこの要求を拒否し、小作組合の切り崩しを図った。
 これに対し、組合側は新組合長・川瀬新蔵の下で要求貫徹のための取り組みを進め、大字の区長選挙にも候補者を立て、正副区長を小作側で占めるに至った。

 形勢が逆転する中で地主側は、小作側の要求を認めるようになる。

 しかし、隣の濁川村に居を構え、新潟県地主協会の会長でもあった真島桂次郎だけは、小作側の要求を突っぱね、小作料請求訴訟を起こした。

 これに対して、笠柳・横井小作組合は、弁護士井伊誠一とも相談して対応を検討し、日本農民組合(日農)に加盟して対抗姿勢を示した。

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 そして、1923年11月には、村内の他部落で結成された小作組合とともに、木崎村農民組合連合会を結成した。

 片山哲らも出席した創立大会で、連合会は小作料の納め方の改善とその要求実現までの小作料延納を決議し、関係する地主たちに要求書を提出した。

組合の勢力拡大を目の当たりにして、大部分の地主たちはこの要求を承認したが、真島ら強硬派の地主はこれを拒否した。

 そして、1924年3月に小作料未納を理由として、小作農の耕地立入禁止の仮処分を裁判所に請求し、裁判所はこれを認め、仮処分が執行された。

 連合会の川瀬らは上京して、日農へ支援を要請するとともに、記者会見を行った。

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 争議は全国紙で報道され、注目を集めることとなり、日農は三宅正一、浅沼稲次郎、稲村隆一らの活動家を送り込んだ。

 また、仮処分執行の最終日に割腹を図る者が出るなど情勢が緊迫したため、裁判所は和解を勧告、地主・小作間で和解が成立した。

 和解に不服であった真島ら6人の地主は、1924年5月に再び訴訟を起こし、小作料請求・耕作禁止・土地返還を求めて法廷で争う構えを示した。

 また、地主側は組合に属さない小作農を協調的な奨農会に組織化しようと図った。

 この訴訟について、新潟地方裁判所新発田支部は、1926年4月に地主側勝訴の判決を下した。

 直ちに小作側は東京控訴院に控訴したが、地主側は耕地20町歩余りを立入禁止とする仮処分を強制執行するよう裁判所に申請した。

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 5月5日の鳥屋部落における執行の際には、組合員と警官隊が衝突し、組合幹部が多数検束され、検束された小作農の中には、稲木に縛り付けられた者もあった。

 この「鳥屋浦事件」は、日農指導の下で耕作権の確立を目指す小作と、それを強制的に剥奪・弾圧しようとする地主との対立を決定的なものとした。

 5月17日夜、組合幹部は争議のための行動計画を決めた。

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 そこには、行商隊の結成、婦人部の設置と並んで、村立尋常小学校に通学する組合員の子弟が無期限で同盟休校することが掲げられ、直ちに結成された婦人部の行商隊は、真島の似顔絵をパンに焼き付けた「真島パン」や組合マッチなどを売り歩きながら、小作側の主張をアピールした。

 さらに組合は「児童同盟休校並びに新農民小学校建設に対する声明書」を発表し、村長や小学校の守旧的な姿勢を批判、村内各所に教場を開いて授業を開始した。

 また、木村毅・大宅壮一・富士辰馬らが課外授業を行い、6月15日には無産農民学校協会が発会し、賀川豊彦が会長となった。

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 そして、遠藤新が設計したライト式の校舎の建築は急ピッチで進められ、7月25日に上棟、9月1日には開校式が行われたのである。

 しかし、公教育維持の立場から政府・県当局は強硬的な方針を崩さず、そのため9月8日に和解が成立し、無産農民学校は解散、同盟休校は終結した。

 農民学校の校舎は補習教育機関としての新潟高等農民学校として存続したが、青年訓練所の開所や組合組織の分裂で経営難に陥り、1928年に閉校、1936年に解体された(その跡地に、争議開始50周年の1972年に、「木崎村小作争議記念碑」が建立されている)。

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 先回記した「久平橋事件」は、1926年7月25日に無産農民学校の上棟式を終えた組合員たちが、午後6時から松ヶ崎浜村で開催される講演会に参加するため行進を始め、久平橋付近で警戒中の警官隊と衝突して、三宅正一ら組合幹部が検挙された事件である。

 木崎村小作争議は小作側の敗北に終わったが、この地域では実質的に小作料が低下し、地主に対する小作農の意識も以前のように卑屈なものではなくなっていったという。

 また、その後の裁判においては、小作人に有利な判決が多くみられるようになった。

 この争議が基本的にはテロのような展開を見せなかったこと、単なる小作料減免要求に留まらず、政治的な待遇改善や人権回復、また無産農民学校に見られるような文化運動など、多様な性格を持っていたことも特徴的である。

 猪木武徳も「「木崎の争議がなかったら、マッカーサーの農地改革もなかった」といわれる程、この争議の歴史的・社会的意義は大きいと言われるのには十分な理由があった」と指摘している。

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