2012年に旅したオホーツク街道の続き その22 啄木歌碑への旅 その6
ここからまた米町公園まで歩いた。
米町公園には⑫米町公園歌碑がある。
ここの歌碑は
しらしらと氷かがやき
千鳥啼(な) く
釧路の海の冬の月かな
この歌は、歌集一握の砂「忘れがたき人人(一)」の中の釧路を歌った32首の中の、前から2番目、さいはての・・・の次に掲載されている。
米町公園は高台にあり、公園からは釧路の海と港が一望出来る。
歌碑は啄木生誕50周年を記念して1934年に建立された歌碑で、釧路の啄木歌碑の中では一番古いが、歌碑の第1号は大正11年4月に盛岡の渋民公園に建立された歌碑である。
歌碑第1号は
やわらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けどごとしに
で、あまりに有名な歌なので、ここでの紹介は控える。
ここの碑文の揮毫者「琢堂」は北海道大学初代総長の佐藤昌介のことで、佐藤は岩手県出身で、明治32年に新渡戸稲造(岩手県出身)と共に日本で初めて農学博士の称号を授与されている。
また、米町二丁目まで少し歩いた。
ここには、歌碑⑬がある。
春の雨
夜の窓ぬらし
そぼふれば
君が来るらん
鳥屋に鳩なく
この歌は歌集一握の砂「忘れがたき人人(一)」に収められている歌ではなく、啄木が釧路新聞に掲載した歌の中の一つである。
歌碑は平成3年12月に建立されたもので、揮毫は角田麗石である。
歌の背景と内容は下記のとおりである。
「君が来る」の「君」とは「小奴」のことで、猛吹雪が続いて社の仕事も休業状態で、どこかへ出かけることもできずに、葡萄酒を飲みながら啄木は小奴から受け取った手紙の返事を書いている。
雪の上に降る雨は音もしなくて静かな夜である。
小奴が来ないかなあと外の様子に耳を澄ますと、どこかで鳥小屋の鳩が鳴いていた。
また少し歩いて米町三丁目の歌碑⑭まで行った。
ここの歌は
顔とこゑ
それのみ昔に変らざる
友にも会ひき
国の果にて
である。
この歌は、歌集一握の砂「忘れがたき人人(一)」の中の釧路を歌った32首の中の、前から4番目に掲載されている。
歌にある「友」とは函館の弥生小学校で代用教員をしていたときの同僚「遠藤隆」で、昨年十月当地に来て、釧路第三小学校に出て居るということだった。
啄木はこの第三小学校学校を快く思っていなかったようで、その内情を探ろうとしたところ、遠藤隆は話そうとはしない。
函館時代からこんな男だったかな、顔も声もあのころとちっとも変っていないのに、友達甲斐のない奴だなあと思った啄木だが、それでも社長からもらった時計を質に入れて金を作り、彼を喜望楼に連れて行ったのである。
喜望楼の五番の室は暖かで、芸者小静はよく笑ひ、よく弾き、よく歌った。
したたかに酔って、啄木は十二時半に帰宿したのである。
啄木歌碑を訪ねながら釧路の街を歩いていると、実に啄木の人間と彼が釧路で生活していたあり様が生き生きと現れてくる。
今にも啄木に声を掛けられそうな気がしてくる。
米町公園には⑫米町公園歌碑がある。
ここの歌碑は
しらしらと氷かがやき
千鳥啼(な) く
釧路の海の冬の月かな
この歌は、歌集一握の砂「忘れがたき人人(一)」の中の釧路を歌った32首の中の、前から2番目、さいはての・・・の次に掲載されている。
米町公園は高台にあり、公園からは釧路の海と港が一望出来る。
歌碑は啄木生誕50周年を記念して1934年に建立された歌碑で、釧路の啄木歌碑の中では一番古いが、歌碑の第1号は大正11年4月に盛岡の渋民公園に建立された歌碑である。
歌碑第1号は
やわらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けどごとしに
で、あまりに有名な歌なので、ここでの紹介は控える。
ここの碑文の揮毫者「琢堂」は北海道大学初代総長の佐藤昌介のことで、佐藤は岩手県出身で、明治32年に新渡戸稲造(岩手県出身)と共に日本で初めて農学博士の称号を授与されている。
また、米町二丁目まで少し歩いた。
ここには、歌碑⑬がある。
春の雨
夜の窓ぬらし
そぼふれば
君が来るらん
鳥屋に鳩なく
この歌は歌集一握の砂「忘れがたき人人(一)」に収められている歌ではなく、啄木が釧路新聞に掲載した歌の中の一つである。
歌碑は平成3年12月に建立されたもので、揮毫は角田麗石である。
歌の背景と内容は下記のとおりである。
「君が来る」の「君」とは「小奴」のことで、猛吹雪が続いて社の仕事も休業状態で、どこかへ出かけることもできずに、葡萄酒を飲みながら啄木は小奴から受け取った手紙の返事を書いている。
雪の上に降る雨は音もしなくて静かな夜である。
小奴が来ないかなあと外の様子に耳を澄ますと、どこかで鳥小屋の鳩が鳴いていた。
また少し歩いて米町三丁目の歌碑⑭まで行った。
ここの歌は
顔とこゑ
それのみ昔に変らざる
友にも会ひき
国の果にて
である。
この歌は、歌集一握の砂「忘れがたき人人(一)」の中の釧路を歌った32首の中の、前から4番目に掲載されている。
歌にある「友」とは函館の弥生小学校で代用教員をしていたときの同僚「遠藤隆」で、昨年十月当地に来て、釧路第三小学校に出て居るということだった。
啄木はこの第三小学校学校を快く思っていなかったようで、その内情を探ろうとしたところ、遠藤隆は話そうとはしない。
函館時代からこんな男だったかな、顔も声もあのころとちっとも変っていないのに、友達甲斐のない奴だなあと思った啄木だが、それでも社長からもらった時計を質に入れて金を作り、彼を喜望楼に連れて行ったのである。
喜望楼の五番の室は暖かで、芸者小静はよく笑ひ、よく弾き、よく歌った。
したたかに酔って、啄木は十二時半に帰宿したのである。
啄木歌碑を訪ねながら釧路の街を歩いていると、実に啄木の人間と彼が釧路で生活していたあり様が生き生きと現れてくる。
今にも啄木に声を掛けられそうな気がしてくる。
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