九州散歩Ⅰ その22 名護屋城跡
風の見える丘公園から、次に名護屋城跡に向かった。
ここまでは、名古屋大橋を渡って6km程、10分程度で到着する。
名護屋城は、今から400年程前、全国平定をなしとげた豊臣秀吉がさらに朝鮮半島、明国(今の中国)へ向けて出兵(文禄、慶長の役)するため、その前進根拠地として築かせた城である。
名古屋大橋の架かる名護屋浦は、秀吉が朝鮮征伐に出た浦で、この名護屋浦の周辺には10万人以上の兵士の陣地があったが、今はその陣地跡には跡形も残っていないところが多い。
しばらくレンタカーに揺られて、無事名護屋城跡(国特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」)に到着した。
ここは、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592年~1598年)の出兵基地である。
同時に、名護屋城跡を中心に半径3キロメートルの範囲にひろがるこの遺跡群は、全国から160を超える大名が集結し陣屋を構築して在陣するという、日本の歴史上にも類を見ない、広域かつ特異な遺跡群でもある。
名護屋城は1591年から1592年にかけてわずか5ヶ月で完成した広さ17万平方メートルの巨大な城で、当時は大坂城に次ぐ全国2番目の規模だった。
また、全国から集まった武士と商人で人口20万人を超える城下町ができ、秀吉ら朝鮮へ渡海しなかった大名たちは能楽や茶の湯といった桃山文化を名護屋に持ち込んだ。
文禄・慶長の役では朝鮮半島から多くの人々が大名によって日本に連れて来られ、その中の優れた技術を持つ陶工は九州各地で製陶を行ったが、佐賀県を代表する唐津焼、有田焼なども彼らが作り始めたと言われている。
名護屋城天守跡を見たあと、名護屋城に別れを告げ、堀秀治陣屋跡に向かった。
名護屋城跡近くには、このように各諸侯の陣屋が築かれていた。
堀秀治は「名人久太郎」と称された堀秀政の子で、越前高田藩の藩祖となり、名護屋城の西南の赤←の位置に陣屋を構えたが、この陣屋は最も整備されている陣屋の一つで、間近まで車で行ける。
堀秀治陣屋跡はこんな感じの遺構である。
大手枡形虎口、大手郭、空堀などをサラッと回って、建物跡の礎石が整備され、建物範囲も再現されている本郭跡を最後に見て、堀秀治陣屋跡をあとにした。
この記事へのコメント