本多勝一「カナダ・エスキモー」

 日本におけるルポルタージュの "古典" とでも言うべき本。

 『エスキモー』という人びとの存在は知っていても、その生活については全く知らなかったので、驚きの連続となる印象的な本。


 『エスキモー』は「酷寒の地で生活する民族」というイメージぐらいしかなかったが、そこに描かれる生活様式はまさに想像を絶する世界である。



 その1 「時間感覚の希薄さ」と「空間感覚の希薄さ」

 

 「エスキモーにとって、一年が三六五日あるということは、まるっきり無意味である。」

 一年は、極論すれば二日間だ。

 夜の半年と昼の半年である。

 また、カナダの中部北極圏は山らしい山もないから、単調で退屈な地形がどこまでも続く。

 時間的にも空間的にも、エスキモーは世界一単調な世界に生きる民族である。



 その2 「食事の概念が無い」


 エスキモーには、僕らの生活のような日常の「食事」は存在しない。食事とは、ただ「食うこと。

 腹がへったとき、食い物を胃袋につめこむだけだ。一家そろって食べるときもなければ、食事時間もない。腹がへる。だから食べる。



 その3 客へのもてなしとしての妻の提供

 

 エスキモーは客人へのもてなしとして自分の妻を提供する習慣があった。

 提供された男が次に客をもてなす側になったときには、互酬性の原則によって自分の妻を相手方に提供することを求められた。

 この習慣は外国人には非常に奇異なものに映り、しばしば小説の題材に取り上げられた。



 その4 姥捨ての習慣と特異な人口構成の障害者がまったく存在しない社会


 極めて限られた食料による極限的生活を送っていたことから、生産労働に従事できない老人病人は遺棄することが一般に行われていた。

 また、出生時に選択的な間引きが行われていたため、障害者は不在となり、双子、女性の割合が他の社会に比べて極端に低くなっていた。



カナダエスキモーの中の「残酷とは何か?」という文章の中に、次のような一節があった。


 『エスキモーの世界は、日本や西欧の世界とは、かなり違っています。善悪の基準も倫理も価値観も、まるっきり違うといって良いでしょう。大切な事は、そのような「別の世界」があること、私たちの善悪の基準などは、私たちの属する社会だけのことで、他の民族には通用しないことを認識することです。こうした「別の世界」を、私たちの基準で批評して、残酷だの野蛮だのと考えるのは、おかしいだけでなく危険なことです。異民族と接する機会の少なかった歴史を持つ日本人の場合、とくに注意したい点だと思います。』

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