潟のみち その20 福島潟の歴史

 ビュー福島潟のある福島潟は、新潟市北区新鼻に位置する潟である。

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 潟の下流は新井郷川と同分水路、福島潟放水路へとつながり、周辺部には水の公園福島潟が整備されている。

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 福島潟(面積163ha)は毎年、国の天然記念物であり旧豊栄市の鳥でもあるオオヒシクイをはじめとする220種類以上の渡り鳥が飛来するため、国指定福島潟鳥獣保護区(集団渡来地)に指定されていて、多くの水生・湿性植物などが450種類以上確認されているほか、オニバスミズアオイ、ミクリなど全国的にも希少となっている植物の自生地としても確認されている。

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 このように多くの自然が残されているため、福島潟は環境省の「日本の重要湿地500」「重要里地里山」、朝日新聞の「21世紀に残したい日本の自然百選」、新潟日報の「にいがた景勝100選」などに選ばれており、さらに「福島潟の草いきれ」として環境省の「かおり風景100選」にも選ばれている。

福島潟では江戸時代から昭和期まで干拓が行われ、潟の面積は大幅に縮小したが、その歴史を具体的にみていく。

 正保越後国絵図(正保4年(1647))によれば、福島潟は横3,400m、長さ4,900mと記載され、県内では一番大きな潟湖だった。

 当時、この新発田地域には、ほかに塩津潟(紫雲寺潟)や島見前潟等があり、川の遊水地として水害、水利調整地としての役割を担っていた。

 潟湖が多かった新発田藩では、自作地やまた小作人として働く場所も少ない状況で、藩の収入確保のため、塩津潟等の干拓を盛んに行った。

 しかし、福島潟ではほかの2つの潟に比べ水深が深く、当時の土木技術では対応出来なかった。

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 潟の周りの荒地を少しずつ田にしていったが、ひとたび洪水が起きると一夜にして泥の海に消えるような田を相手に米作りをしてきた。

 享保15年(1730)、新発田藩は幕府の許可を得て、信濃川と合流していた阿賀野川の上水を日本海に直接流すため、延べ11万5千人も使い、松ヶ崎分水路工事(延べ11万5千人の人々)を行い、翌年の雪解け水により川幅が広がり、その分水路が阿賀野川の本流となり、福島潟周辺(約5,800ヘクタール)の水位は2mも低くなり、3,800ヘクタールもの土地ができ、今の葛塚、太田、木崎、鳥屋、早通の集落が生まれた。

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 この結果、阿賀野川の河床が下がり、岡方の人々は阿賀野川からの用水が取水しにくくなり、享保9年(1734)、約33kmの新江用水路をつくり、水田に用水を引いた。

 宝暦5年(1755)、柏崎の山本丈右衛門が幕府から許可を得て、福島潟の干拓工事を始め、丈右衛門は潟に流れ込む佐々木の古太田川の水を新発田川へ流すために、太田川を開削したり、新井郷川を直したりした。

 潟の周り17の集落の人々が仕事を割り当てられて丈右衛門に協力し、15年もかかってようやく189ヘクタールを干拓した。

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 寛政2年(1790)、水原代官所では市島徳次郎をはじめとする水原の13人のお金持ちに福島潟の干拓をさせることにした。

 13人は最初、新井郷川の逆流防止工事をしたが、効果が無いので、土を掘り上げて囲土手を築き、囲いの中にマコモを植えて、地面を固めていくやり方を始めた。

 その後、上流から土を流して沼地を埋めたり、新井郷川の名目所に川を掘って水はけをよくしたりして干拓を進めた。

 文政7年(1824)、幕府から13人衆の干拓を引き継ぐように命ぜられた新発田藩は、川の上流から大がかりな土砂を流し始め、また、山倉新道、飯塚新道などの土手を築いて福島潟を仕切り、干拓を行った。

 このようにして、13人衆や新発田藩で干拓された453ヘクタールの土地は、近くの村々に売り渡されたほか、まだ干拓されていない水面までも売られた。

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 嘉永5年(1852)には、新発田藩の庄屋であった斎藤家(七郎次永治)が新鼻新田を藩から買い取り、「新囲」の干拓を始めた。

 斎藤家は、明治14年(1881)には福島潟新田の約320ヘクタールのうち190ヘクタールを所有していたが、明治19年(1886)には、新潟の鍛工場、沼垂の精米所、赤谷・間瀬の鉱山、製塩、蒸気船三吉丸の経営に取り組んでいた弦巻家が福島潟と新鼻新田の約160ヘクタールを所有するようになった。
 弦巻家は、「新々囲」と「梅雨湖」の干拓を始めましたが、明治29年(1896)には、水原の豪商佐藤家に買い取られ、干拓が引き継がれた。

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 その後、福島潟は明治44年(1911)に「千町歩地主」といわれる市島家のものとなり、「山倉囲:明治45年」や「市島囲:昭和12年」干拓を行い、昭和31年(1956)まで潟を所有していた。

 なお、大正9年(1920)からは、福島潟より阿賀野川に合流していた新井郷川を阿賀野川から切り離し、日本海に流す工事(昭和8年竣工)が行われた。

これにより、それまで福島潟周辺まで阿賀野川の水が逆流してきて水位が下がらなかった問題も、水はけが良くなったため、福島潟はかつての10分の1くらいの大きさになった。

 さらに昭和16年(1941)から始まった国営阿賀野川右岸農業水利事業(排水)により、新井郷川排水機場が昭和36年(1961)に完成し、水位がさらに20cm~50cm低下し、周辺の水田は、湿田から乾田に変わった。

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 昭和35年(1960)頃から食糧増産に向けた湖面の全面干拓の声が上がり、昭和41年(1966)から国営福島潟干拓建設事業が始まったが、その年の7.17水害、翌年の8.28水害により、干拓は潟の全面干拓から南半分の168ヘクタールに変えられ、昭和43年(1968)から工事に着手し、昭和50年(1975)に完成してほぼ現在の形となった。

 その後、国と農民側で稲作の許可を巡ってトラブルが発生したが、合意が成立した。

 木崎争議と同じようなことが、この福島潟でも行われていたようである。

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