潟のみち その21 北区の明治維新 

 今年の5月26日から、20年間家族同然に過ごして来たスバルレガシーツーリングワゴン2000TXに代わって家族に加わったトヨタヤリスZ4WDに乗って、「潟のみち」の旅の最後の目的地である新潟市北区郷土資料館に到着した。

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 到着時間は、13時16分である。

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 新潟市北区郷土資料館では、「小作農民と真島桂次郎展」が開催されていた。

 この事業では、木崎村小作争議から100年経過した今、文書などの歴史資料の展示を通して、改めて木崎村小作争議とはどのような農民運動であったのかを紹介し、併せて小作人側から「悪地主」といわれ強硬に対峙した地主側の中心人物である真島桂次郎とはどのような人物だったかを探っていく。
 その前に、北区の明治維新という展示パネルがあったので読んでみた。

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 北区は新発田藩に属していて、新発田藩は戊辰戦争では新政府側よりの立場をとろうとするも、周辺諸藩の奥羽越列藩同盟の圧力に抗しきれず、やむなく同盟に加盟した。

 その後、新発田藩は新政府軍に合流し参戦することとなり、その結果、新発田の地は戦火から守られることとなった。


 ただし、この時の新発田藩の行動は越後長岡藩などからは明らかな裏切り行為と見られ、周辺地域との間にしこりを残すことにもなったという。

 戊辰戦争時、北区では岡方組正気隊や北辰隊が結成され、新政府軍の先方隊として会津藩と戦った。

北区の松ヶ崎浜には1868年8月から約1ケ月間、薩摩藩の指揮を執るために西郷隆盛が滞在していたという。

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 幕末・維新関係の資料がここに展示されているが、地元の太夫浜には「西郷隆盛宿営地の碑」もあり、その写真も展示されている。

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 こんな碑である。

 木崎村小作争議については、次回最終回で再度触れることにするが、ここでは最後に新政府軍の一員として戦った新発田藩の姿を紹介する。


 新発田藩が実質的に新政府軍として働いたのは7月25日から、藩は帰順が認められると直ちに、藩境の島潟村や長畑村に、新潟方面から退却してくる同盟軍兵士に備えて兵を派兵した。

 8月早々藩は、会津口と村上、米沢、庄内藩鎮撫の先鋒となり進撃を開始するため、諸隊の総隊長には、家老らを宛て各方面軍の編成を行った。

 新政府軍は攻撃隊を会津口、米沢口、庄内口の三つに分け、新発田藩にはそれぞれの部隊で過酷な先鋒が命じられた。

 8月11日には、西郷隆盛が藩兵をともなって松ヶ崎(松浜)の坂井家に宿営した。

 新政府軍の参謀たちは西郷のもとを訪れ、部隊の配置を決めている。

 会津口は長州藩山縣が主導し、米沢・庄内口は薩摩藩黒田が主導することとなった。

 新発田藩では会津口に一番多くの兵力をさき、826人が従軍した。

 藩内の庄屋やその子弟によって、正気隊という部隊が自主的に編成され、藩兵と共に戦いに参加した。

 新発田藩は会津、庄内藩が降伏する9月下旬までのおよそ2か月間にわたって、戦場では常に先鋒を命じられ、藩士、農兵、力夫を合わせ63人にも及ぶ戦死者を出した(他に同盟軍として見附方面で戦死した者が29人いる。4月から新政府軍として戦った高田藩が70人ほどの戦死者だったのに比較して非常に多い人数である)。

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