潟のみち その22 共存共栄の考え方
潟の道も今回が最終回である。
今回のテーマは、「生活の向上を求めた小作とそれに対応した地主たち」である。
まず地主に焦点を当てる。
過酷と言われるほどに稲作労働が大変だった亀田郷を含む越後平野一帯は、信濃川、阿賀野川、加治川などが日本海に注ぎ込む地帯で、新潟の地主の多くはこの地域に点在していた。
米作りに欠かせない豊かな水と、商品としての米を運搬する舟運、その地の利を味方に、江戸時代後半、地主は新田開発を進めるとともに、周囲で手放された田畑を集積して、巨大化していった。
巨大化した最たるものが千町歩地主で、千町歩地主の顔ぶれは信頼性の高い大正13年(1924)の農林省調査によれば、北海道以外には9名、そのうち新潟県では1348町歩を有する市島家を筆頭に、伊藤家、白勢家、田巻家、斉藤家の5家が名を連ねていた。
市島家、白勢家、田巻家は江戸時代、自らの力で新田開発などの公共工事を積極的に行い、土地や農業技術の改良にも取り組み千町歩の礎を築いた。
まず、市島家を見ていく。
市島家はもともと丹波(現・兵庫県)の出身で、慶長3年(1598)に新発田藩主となった溝口家に伴って移ってきた。
長く水原(現・阿賀野市)に住み、福島潟の干拓を中心に蒲原平野の開発に関わり、また、薬種問屋や金融業も行うなど多角経営を実践。文化文政期の終わり(1830年頃)には、1700町歩を保有していたといわれている。
明治初期には納税額全国2位になったほどの大地主でありながら、市島家の家風は質素倹約。「お金と努力は人のために」が家訓で、難事業の福島潟干拓に挑み続け、また、大正・昭和時代には、一族だけでなく使用人や小作人の子弟への学費援助も続け、そうした理念が脈々と受け継がれ、江戸から昭和に渡る長い繁栄につながった。
次に、田巻家である。
田上町の千町歩地主の田巻家は、7代目当主が大正3年(1914)に離れ座敷として椿寿荘の建築を開始、その目的は人助けで、大正時代に不況で仕事がなく困っていた小作人に雇用を作りだそうと離れ座敷建築を思い立つ。
仕事を創り出すことが目的の救済事業だから、何年かかっても、どんなに費用がかかってもよいと、材料は全国から銘木、銘石を集め、建築は名人に依頼、1日におよそ300人の小作人が3年半働き続け、大正7年(1918)に完成した。
そこには、「人をつくることが自分の務め」と考える大地主としての責任とプライドがあった。
次に、伊藤家である。
宝暦6年(1756)、沢海村(現・新潟市江南区)で初代が分家して独立し、畑で染料になる藍を栽培し、藍の商いを皮切りに、倉庫業、金融業などで蓄財し、土地を購入していった。
伊藤家の土地集積の最盛期は明治半ば。明治17年(1884)からの9年間で一気に455町歩を得て、明治34年(1901)には1346町歩を保有する千町歩地主に成長した。
伊藤家には、「悪田を買い集め、美田にして小作に返すべし」という家訓があり、小作人の収入や暮らしが安定してこそ地主の暮らしも成り立つという共存共栄の考え方で、伊藤家では小作人と地主の争いは少なかったという。
白勢家と田巻家は省略するが千町歩地主さん達は、小作人たちの人間的な生活に協力的だったようである。
さて、木崎村小作争議まで起こされた、木崎村の大地主の真島桂次郎である。
木崎村小作争議当時、小作料は収穫の半分以上ということで、小作料の減免を求めて笠柳と横井の農民たちは約100人による小作組合を結成して木崎争議を起こしたのである。
小作人の一人で、司馬さんの「潟のみち」にも出てくる故池田徳三郎氏がこう言っている。
「ウジ虫の如くくたばるか、険しくても、生きる道を切り開いていくか」
「われわれはただ人間であることを認めてもらいたい」
真島桂次郎は、人間的な生活を求める小作達の前に、彼より小規模な地主たちの支援を受けながら、強硬に何年にも渡って、まるで悪代官のように立ちはだかったのである。
真島は小作人に対しては悪代官のようだったが、時の政府に対しては協力的だったようで、これは明治天皇の北陸御幸のために真島家が用意した白ちりめんの敷物である。
これは、真島桂次郎(号 天楽)の詠んだ和歌と書で、米作り農民のことがわかってはいるようである。
しかし、彼の心の中に、「小作人の収入や暮らしが安定してこそ地主の暮らしも成り立つ」という共存共栄の考え方があったかどうかは疑問である。
農業は日本という国を成立させていった基盤であり、その基盤を支えていた農民たち(小作人たち)を大切にする思想こそが、むやみな争いを起こさない最善の方法ではなかったかと考える。
これで、「潟のみち」を終える。
今回のテーマは、「生活の向上を求めた小作とそれに対応した地主たち」である。
まず地主に焦点を当てる。
過酷と言われるほどに稲作労働が大変だった亀田郷を含む越後平野一帯は、信濃川、阿賀野川、加治川などが日本海に注ぎ込む地帯で、新潟の地主の多くはこの地域に点在していた。
米作りに欠かせない豊かな水と、商品としての米を運搬する舟運、その地の利を味方に、江戸時代後半、地主は新田開発を進めるとともに、周囲で手放された田畑を集積して、巨大化していった。
巨大化した最たるものが千町歩地主で、千町歩地主の顔ぶれは信頼性の高い大正13年(1924)の農林省調査によれば、北海道以外には9名、そのうち新潟県では1348町歩を有する市島家を筆頭に、伊藤家、白勢家、田巻家、斉藤家の5家が名を連ねていた。
市島家、白勢家、田巻家は江戸時代、自らの力で新田開発などの公共工事を積極的に行い、土地や農業技術の改良にも取り組み千町歩の礎を築いた。
まず、市島家を見ていく。
市島家はもともと丹波(現・兵庫県)の出身で、慶長3年(1598)に新発田藩主となった溝口家に伴って移ってきた。
長く水原(現・阿賀野市)に住み、福島潟の干拓を中心に蒲原平野の開発に関わり、また、薬種問屋や金融業も行うなど多角経営を実践。文化文政期の終わり(1830年頃)には、1700町歩を保有していたといわれている。
明治初期には納税額全国2位になったほどの大地主でありながら、市島家の家風は質素倹約。「お金と努力は人のために」が家訓で、難事業の福島潟干拓に挑み続け、また、大正・昭和時代には、一族だけでなく使用人や小作人の子弟への学費援助も続け、そうした理念が脈々と受け継がれ、江戸から昭和に渡る長い繁栄につながった。
次に、田巻家である。
田上町の千町歩地主の田巻家は、7代目当主が大正3年(1914)に離れ座敷として椿寿荘の建築を開始、その目的は人助けで、大正時代に不況で仕事がなく困っていた小作人に雇用を作りだそうと離れ座敷建築を思い立つ。
仕事を創り出すことが目的の救済事業だから、何年かかっても、どんなに費用がかかってもよいと、材料は全国から銘木、銘石を集め、建築は名人に依頼、1日におよそ300人の小作人が3年半働き続け、大正7年(1918)に完成した。
そこには、「人をつくることが自分の務め」と考える大地主としての責任とプライドがあった。
次に、伊藤家である。
宝暦6年(1756)、沢海村(現・新潟市江南区)で初代が分家して独立し、畑で染料になる藍を栽培し、藍の商いを皮切りに、倉庫業、金融業などで蓄財し、土地を購入していった。
伊藤家の土地集積の最盛期は明治半ば。明治17年(1884)からの9年間で一気に455町歩を得て、明治34年(1901)には1346町歩を保有する千町歩地主に成長した。
伊藤家には、「悪田を買い集め、美田にして小作に返すべし」という家訓があり、小作人の収入や暮らしが安定してこそ地主の暮らしも成り立つという共存共栄の考え方で、伊藤家では小作人と地主の争いは少なかったという。
白勢家と田巻家は省略するが千町歩地主さん達は、小作人たちの人間的な生活に協力的だったようである。
さて、木崎村小作争議まで起こされた、木崎村の大地主の真島桂次郎である。
木崎村小作争議当時、小作料は収穫の半分以上ということで、小作料の減免を求めて笠柳と横井の農民たちは約100人による小作組合を結成して木崎争議を起こしたのである。
小作人の一人で、司馬さんの「潟のみち」にも出てくる故池田徳三郎氏がこう言っている。
「ウジ虫の如くくたばるか、険しくても、生きる道を切り開いていくか」
「われわれはただ人間であることを認めてもらいたい」
真島桂次郎は、人間的な生活を求める小作達の前に、彼より小規模な地主たちの支援を受けながら、強硬に何年にも渡って、まるで悪代官のように立ちはだかったのである。
真島は小作人に対しては悪代官のようだったが、時の政府に対しては協力的だったようで、これは明治天皇の北陸御幸のために真島家が用意した白ちりめんの敷物である。
これは、真島桂次郎(号 天楽)の詠んだ和歌と書で、米作り農民のことがわかってはいるようである。
しかし、彼の心の中に、「小作人の収入や暮らしが安定してこそ地主の暮らしも成り立つ」という共存共栄の考え方があったかどうかは疑問である。
農業は日本という国を成立させていった基盤であり、その基盤を支えていた農民たち(小作人たち)を大切にする思想こそが、むやみな争いを起こさない最善の方法ではなかったかと考える。
これで、「潟のみち」を終える。
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