探険家の歴史 第2部 長江の旅 その3 武漢(ウーハン)にて クイズ付きブログ(問題は最後)

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  長江第1大橋(武漢)  ↑最後に問題があります。

  

 武漢は長江の中流域に位置し、長江と長江最大の支流である漢水の交わる地点に開けた町。

 漢水は陝西省の秦嶺山脈に源を発し、水量の多さでは黄河をしのぐと言われる。

 全長、1532キロもある。


 武漢は、古来より水陸交通の要衝であった。内陸の港町としては、最も栄えた地域のひとつである。

 武昌、漢陽、漢口のかつて武漢三鎮と呼ばれていた三つの地域を、1949年、統合してできた。


 武漢三鎮のうち、最も賑やかだったのが漢口。

 主な商業区は今もここに集中している。

 武昌は教育区、大学が集中している。

 漢陽は風景区と言ったらよいだろうか。

 風光の明媚さにおいて他の二つの鎮にまさる。


 この一帯は、古代荊楚文化の発祥の地。

 残された文物は馥郁たる古代楚の文化の味わいを今に伝えている。


 近代においては、西洋列強の租界が置かれ、今でもイギリス、フランス、ロシアなどの租界の時代の石造りの洋館の街並みが残る。


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    故人 西のかた黄鶴楼に辞し

    煙花 三月 揚州に下る

    孤帆の遠影 碧空に尽き

   唯だ見る 長江の天際に流るるを


と謳ったのは唐の詩人李白だ。

 その黄鶴楼は江南の「三大名楼」のひとつといわれ、長江大橋を見下ろす、蛇山の上に聳えていた。


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 三国時代の223年、呉国の孫権が劉備の蜀軍に備えての物見櫓として建築したのが最初と伝えられているが、その後何度も改修が行われ、現在の建物は1985年に再建されたものだそうだ。

 外観は木造だが、実は鉄筋コンクリート造り、エレベータ付きの5階建てのもの。


 杭州の西湖と並び称される景勝地の東湖はここから歩いても簡単に行ける。


 東湖はなかなか景色の良いところで、屈原の叙事詩『離騒』が、高さ10メートルほどの岩に、びっしりと彫られていたのは圧巻だった。


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 屈原は戦国時代の楚国の人で、江南を放浪し、やがて、楚が秦に滅ぼされると、絶望のあまり、汨羅に身を投げて自殺した。

 放浪時代に東湖にも寄ったのであろう。

 彼の記念館も建っていた。


 長江大橋は長さが1670メートル、南京のものと同じく2段構造で、下を鉄道、上が車道になっている。


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 長江大橋を武昌側から歩いて渡り、治水に功績のあった人々を讃えるため建てた晴川閣や、亀山(三国志で活躍した人物像が飾られている)などを見ながら、漢口側のフェリーターミナルの方に向かった。


  フレディ あなたと出会ったのは 漢口

  揚子江沿いのバンドで あなたは人力車夫を止めた


  フレディ 二人で初めて行ったレストラン

  三教街を抜けて フランス租界へとランデブー


  あの頃私が一番好きだった 三教街のケーキ屋を覚えてる?


 さだまさしというおじさん歌手がこんな歌をここで作ったが、あたりをきょろきょろしてあの店かな歌のケーキ屋は、などと思ってこの漢口のまちを歩いてみた。


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   漢口のまちの一番賑やかな江漢路です。 ↑


   

 ここで、武漢を流れる漢水にまつわる、あまりに美しく有名な伝説を一つ。


 武漢を流れる漢水は地上にある天の川である。

 北から南に流れる漢水が天上の天の川の方向とほぼ一致するので、天の川は逆に天漢と呼ばれていた。


 この漢水の流れる地から生まれた伝説が、荊楚歳時に書かれ、七夕伝説となった。


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  上の写真中で、天の川の左上に輝いている明るい星は織姫 ..

  天の川を隔てて右下に輝く星が彦星です。  ↑  


 むかし、中国の漢水のほとりに、織女(しょくじょ)という機織(はたおり)の上手な美女が住んでいた。

 この娘は王の父君の自慢の娘だった。


 そうするうちに、娘が年頃にもなったので、父王は、この娘に農耕に熱心な牽牛という青年が似合いと考え、婿に迎えてやった。


 ところが、それからというもの、織女はあれほど好き好んでいた技芸をおろそかにし、肝心の機織も怠けるようになった。(恋は常人を狂わせ、盲目にする?)


 それでおこった父王は牽牛を織女から引き離し、漢水の対岸に追放してしまった。


 それからの二人は、年に一度、旧暦7月7日の夕だけ、逢うことを許され、牽牛は漢水を渡って織女に逢いに来た。

 橋渡しは鵲(かささぎ)群の群れ。


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   写真は恋の橋渡し役のかささぎさん  ↑


 この地上のロマンスが、天空高く流れる天川(あまのがわ)のほとりの、琴座のべガ〔Vega。織女座〕と、鷲座のアルタイル〔Altair。牽牛座〕に移して考えられるようになった。




 次に、三国志の前に、今回のヒーロー毛沢東を紹介する。


 武漢に近い長沙というまちは毛沢東(1893-1976)の生まれ育った地である。


 毛沢東はどう考えても悪役で、20世紀の始皇帝のようなものである。


 ただ、アヘン戦争以後の混乱した近代中国の統一は、彼の力なしには出来なかった。

 彼はそれを、周恩来という賢明な副官と共に、共産主義という力で統一した。


 子供の頃の毛沢東は、やはり想像していたとおり秦の始皇帝や漢の武帝の話に夢中になり、三国志やナポレオンなど英雄の話が大好きな少年だった。


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 長沙には「少年老い易く学成り難し」という「偶成」と言う詩を書いた朱熹の岳麓書院があり、多くの知識人がここに集まった場所。


 そんな風土の影響か、彼は歴史の教師となり、その後小学校の校長とまでなっている。


 だが、平穏な道を選ばず、共産党に入党、彼の場合は英雄の道となった。


 彼の夫人として有名な江青は4番目の奥さん、英雄色を好むを地で行くような人物が毛沢東。


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 江青二十三歳。

 この後毛沢東四十五歳と結婚、二人は熱愛した。


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 写真は、天安門で建国を宣言している毛沢東。

 「中華人民共和国、今天、成立了!!」と宣言したのち感極まり、あとを周恩来が引き継いだ。



 ここで辞めておけば、英雄で終われたものを・・・。


 共産党独裁下の中国で、文化大革命とか粛清とか、いろんな事件を起こした。


 毛沢東は自身の政権闘争に国権を利用し、国家を私物化した。

 その姿はあたかも皇帝のようであり、あらゆる人間に恐れられた始皇帝といくらも変わらなかった。


 周恩来の後を追うように、1976年9月9日死去、彼は20世紀の英雄ではあった。



 ここで問題です。  




 あなたが初恋の人とデートするとしたら、中国の伝統行事七夕の日?、それともキリスト教の伝統行事クリスマス?場所も書いてね。

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