吉備王国へのみち その27 木蓮寺

 これから、「しおまち唐琴通り散策マップ」を片手に、寄港地として栄えた江戸時代から昭和30年頃の面影が残る町並みを歩いていく。

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 まず、⓵の海遊文化館である。

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 かつては警察署にもなっていた築100年以上の洋風の建物を利用した海遊文化館では、鎖国時代の日本と朝鮮の文化交流、牛窓の歴史を紹介する資料を展示している。

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 朝鮮通信使資料室では、外交使節団朝鮮通信使の行列を再現したジオラマや通信使の歴史、経路を紹介したパネル等が展示してあり、次の木蓮寺に行くための貴重な参考資料になった。

 だんじり展示室では、牛窓秋祭りで使用される実物のだんじりが2基展示されていて、祭りの様子を展示室の映像でじっくり見た。

 次に、②の木蓮寺に行った。

 ここには朝鮮通信使の貴重な記録が残っている。

 鞆の浦を出航した朝鮮通信使大船団は、備前岡山池田藩の先導で一路牛窓(現瀬戸内市牛窓町)へ向かった。

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 牛窓は、小豆島の北方対岸にあり、福山藩の鞆の浦と姫路藩の室津を結ぶ要所で、瀬戸内海の東西の中央に位置した天然の良港である。

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 朝鮮通信使船団が牛窓に入港、上陸、歓迎の宴会までの様子を地元の記録は次のように記している。

 「牛窓の西の岬にのろしが上った。鞆の浦まで派遣されていた家老の船の先導で、三使とその荷物を分載した6隻の大船、対馬守の乗船を大小1056隻の船でとりまき警護しながら、入港してきたのである。高らん付きの特設桟橋から三使以下残らず上陸ののち、対馬守も上陸。町筋はよく清掃され、道のまん中にはうすべりが敷かれ、提灯にあかりがともされている。一行は海浜に設けられた7棟からなるお茶屋に入り、32畳の饗宴の間で三使と対馬守の盛大な宴会が催されたのであった」(『邑久郡誌』)

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 幕府は、朝鮮通信使の特別迎接所として、牛窓と駿河国興津(現清水市)の清見寺の2か所を指定した。

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 特別迎接所は風光明媚な所が選ばれ、長旅の疲れを癒し、道中の慰安を目的としたものであったから、逗留期間が長く、さまざな人々との多様な交流が繰り広げられたようである。
 1624年、第3次朝鮮通信使一行がはじめて牛窓に上陸し、正使らの宿舎饗宴の場となったったのは本蓮寺である。

 本蓮寺は京都の法華宗本能寺の末寺で、西日本・九州地方で最も古い名刹とされている。


 9次通信使(1719年)の製述官・申維翰は本蓮寺について、「傍らに一堂あり、上に銅柱を立て半空に高く突き出ている。名を本蓮寺という。西の港口に一舎を設け、絶勝である。左右には浴室や厠があり、ともにそれぞれ精妙である。庭には蘇鉄(ソテツ)やその他の草木が異香を放ち、疎秀淡潔の感がある」(『海遊録』)

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 備前藩の儒学者らが本蓮寺に押しかけて、使節員らと連日連夜にわたって詩文の唱和をくり広げた。

 熱い交流の様子は庭の樹齢300年を超える蘇鉄だけが静かに眺めていた。

 本蓮寺には、池田藩の儒学者たちと通信使の交流を偲ばせる通信使の遺墨9点が残されている。

 その中の一点、5次通信使(1643年)従事官・申濡(シン・ユ)の七言絶句が本蓮寺書院に掛かっている。


    牛頭寺古残僧少

    翠竹蒼藤白日昏

    宿客不眠過夜半

    蚊雷蔭々振重門

        
 遇客為妙上人題


 (牛窓の古寺さびて僧侶もわずか、青青とした竹や藤が生い茂り日の光をさえぎって静寂そのもの、投宿の旅人は夜半が過ぎても蚊が雷のようにブーンブーンと飛び回り、奥深い部屋でも羽音がやかましく眠れなかった。妙上人のために作る)

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