探険家の歴史 第2部 長江の旅 その4 三峡にて

画像


画像

  中国三峡、宜昌から重慶までの地図、大きくして見てね。 ↑ 




 長江の中流域に、今とてつもない工事が進められている。

 三峡ダム工事である。


画像

      工事現場です。 ↑


 このプロジェクトは1919年、中国革命の父孫文が提唱、中国建国の父毛沢東がダム着工の方針を固めた国家の威信を賭けたもの。


 1994年12月に正式着工、北京オリンピックの翌年の2009年に完成を目指す、総事業費日本円にして3兆円もの大プロジェクトである。


 完成後のダムの高さは185m、その貯水池は最高水位175m、有効貯水容量222億トン、長さ600km、完成後は中国全発電量の10分の1を担うことになり、その電気は長江河口のまちの上海などに送電されることになる。


 このダム工事区間である宜昌と重慶の間には、瞿塘峡(くとうきょう)、巫峡(ふきょう)、西陵峡(せいりょうきょう)の三つの大峡谷が連なる「三峡」と呼ばれるところがある。


画像

 (瞿塘峡(くとうきょう)、三国志や李白の「早発白帝城」の詩で有名な 白帝城が近くです。最も上流にある。↑)  

  

 天下の絶景といわれ、大詩人李白や杜甫が詩を残しており、苗(ミャオ)族の子孫であり楚の国の憂国の詩人として高名な屈原のふるさと秭帰(しき)のまちもある。


画像

     (巫峡(ふきょう)、巫山12峰で有名 ↑)


 この天下の絶景が、2009年に完成する三峡ダムで水没してしまうという。


 重慶と武漢の間には大型客船や貨物船が三峡を行き来し、観光コースとしても人気の高かったところである。


画像

  (西陵峡(せいりょうきょう)↑最も下流にあり、最下流がダムの建設地となる。)

  

 中国には、「河を治めるものは国を治める」という言葉がある。

 感染症や風土病の蔓延する最悪の土地であった長江下流域が天下の穀倉地帯として変貌を遂げたのも、中国民族4000年の、治水に対する心血を注いだ努力の賜物である。


 政治を行うものにとって、治水は一番重要なことであった。

 まして、長江の水害は規模が桁外れだ。

 ミシシッピ河口のニューオーリンズ並みの水害は歴史上数多く起こっている。


 最近の1998年洪水は、中華人民共和国建国後の最も大きな水害で、1億8000万人つまり総人口の約14.5%の人が何らかの被害を被り、4150人が死亡した。

 移住地から別の場所へ緊急避難した住民の数は1839万3000人に上り、倒壊家屋1329万9000棟、農作物被害面積2229万2000ヘクタールなどの甚大な損害が生じた。


画像

     (1998年の長沙のまちの氾濫の様子 ↑)


 長年の夢である長江流域最大のプロジェクトは、しかし百万とも2百万とも言われている住民の移転問題、ダムの滞積土砂による使用期間短縮問題、ここに生息する動植物の生活環境悪化の問題等を抱えている。


 この三峡を流れる長江に注ぐ川、神農渓の上流に神農架と呼ばれる森林地域がある。

 そこにいる野人の噂を聞き、訪ねることにした。


画像

       神農架の森 ↑


 神農架を有名にしているのは中国の自然が数多く残されており、自然保護の象徴的エリアであると共に、世界の四大謎の一つとされている「野人」が最近においてもしばしば目撃され、新聞でも報道されるからだ。(その他の謎としてUFO、バミューダの三角形、ネス湖の恐竜が上げられている。)


画像

    (バスターミナル、すっかり観光地です。↑) 


 神農架の保護林地域の大龍潭という所にはレストラン、金糸猴園、野人の館(野人博物館)がすでに完成、開業していた。


 野人はヒマラヤの雪男のような、猿人に近い生物のようで、神農架にもこの「野人」が住んでいてしかも神農架は野人のメッカとのこと。


 この野人は雪男と違って、目撃者の数が極めて多く、存在の証拠となる品、即ち、足跡、体毛等も数多く収集されていた。


 「野人の館」には野人博物館が建てられ野人に関するいろいろな品(足跡、体毛など)や目撃者の証言を基にした図入りのパネル等が展示されていた。


画像


 ここで見た「野人―神農架からの報告(杜永林編著)」と言う一冊の本には、神農架でこれまで360人以上の人が138人?の野人を目撃したとのことで、目撃者は林業従事者技術者・会計士・医者・地方公務員幹部、解放軍兵士、国民党兵士などなど、二人以上の人が同時に目撃したのは54回もあり、その内5人以上は17回、30人以上が同時に目撃したのは2回あったとのこと。

 最近は特に、毎年のように観光客が遭遇している。


 三千年前の古籍の中にも記述があり、清代に著された『房県誌』には「房山ハ高険ニシテ幽遠ナリ。

 石洞ハ房ノ如シ。

 毛人多ク、ソノ長ハ丈(約3メートル)ニ余ル。

 遍ク体ニ毛ヲ生ジ、時ニ出デテ、人、鶏、犬ヲ噛ム・・」と記されている。



画像
                 

     (この森に突撃したが・・・・↑)

  


 これに勢いを得て、現地の「薬草ガイド兼野人ガイド」と共に、薬草の宝庫といわれる神農架の森に分け入り、様々な薬用植物の話を心ここに在らずで聞きながら、野人を求めて半日過ごしたが、やはり野人には遭遇出来なかった。(雪男ならネアンデルタールの末裔という説もあり、新人類と旧人類の劇的な出会いを期待していたのにね。)



 中国はアメリカのような人種まで極端に違う国家ではないが、多民族国家であることに違いはない。

 中国はロシアの国に酷似している。

 人口の94%が漢族、残りの6%が政府が認定している55の少数民族である。


 長江文明を築いた三苗の一角、苗(ミャオ)族もその少数民族の一つである。

 苗族は長江中流・下流域で稲作・漁労の民として長江文明を築きながら、北方の畑作・牧畜民族である漢民族に征服され、雲南省や貴州省のような辺境の森の中に逃げ込み、一部は東シナ海を渡り、日本に上陸し、日本に弥生時代をもたらすことになる。


画像

    (苗(ミャオ)族の女性、弥生人となった。日本人は惹かれます。↑) 



 中国4000年の歴史は、覇権主義的な北方の畑作・牧畜民族である漢民族の主導のもとで繰り広げられたが、時には従属的な地位である少数民族の中から、例外的に全中国を支配した時代も生まれた。

 清王朝の時代の満州族である。

 彼等は漢民族に今はほとんど同化している。


 しかし、多くの少数民族は未だ中国の辺境と言われる地域で、昔ながらの生活を変えずに居住しているのが現状である。


 チベット系少数民族のトウチャ族は長期にわたって漢民族とともに生活してきたため、ほとんどの人が漢語を使う。


画像

      (トウチャ族の女性 ↑)



 神農渓にはトウチャ族が住み着いており、男たちはこの神農渓で「豌豆角」(エンドウ豆のさやのような形の舟)という手漕ぎの船に乗りこみ川を往来する仕事や曳夫の仕事をしている。


画像

    ( トウチャ族の男の全裸での曳夫姿、かっこいいね。↑)


 僕も神農架の行き帰りにこの船を利用したが、この光景は三峡ダム完成により、貴重な遺跡や史跡、豊かな自然とともに姿を消すことになり、トウチャ族の伝統的な生活も終焉を迎えることになる。



画像

    (三峡ダム完成図  ↑)



ここで問題です。  


あなたは三峡ダムの建設をどう思われましたか?


コメント欄にご自由に記載

この記事へのコメント