「日本最長10河川の旅」で出会った「日本を代表する人物」 その11 天竜川への旅 NO2 飯田で柳田國男記念館に行く

柳田國男は1875年(明治8年)7月31日、飾磨県(兵庫県)神東郡田原村辻川(現:兵庫県神崎郡福崎町辻川)に儒者で医者の松岡操、たけの六男(男ばかりの八人兄弟)として出生した。

松岡左仲━━小鶴         ┏松岡鼎
       ┃  (操と改名) ┃
       ┣━━━松岡賢次  ┣松岡俊次
       ┃     ┃   ┃
      中川至    ┣━━━╋松岡泰蔵(井上通泰)
             ┃   ┃
            たけ   ┣松岡芳江
           (尾芝)  ┃
                 ┣松岡友治
                 ┃
                 ┣松岡國男(柳田國男)
                 ┃
                 ┣松岡静雄
                 ┃
                 ┗松岡輝夫(松岡映丘)

長男の松岡鼎は医師、次男の松岡俊次は早世、三男の井上通泰(松岡泰蔵)は国文学者にして歌人そして本業は医師、四男の松岡芳江は早世、五男の松岡友治は早世、六男が民俗学者の松岡國男(柳田國男)である。
弟で七男の松岡静雄は本業が海軍大佐、後に言語学者・民族学者。
末弟の八男が松岡輝夫(松岡映丘、高名な日本画家。
柳田國男は、医者や学者や芸術家の家系で、日本の民俗学を創り出す能力的素地はその血統からも伺える。

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柳田國男は兵庫県に生まれた。
幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し、12歳時に医者を開業していた長男の鼎に引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に在住。

この辺の事情は、僕のブログ『利根川の旅 柳田國男が本当の意味で誕生した地「利根町」』の中に詳しく書いてあるので、次回に紹介する。

その後、明治34年(1901)に東京在住の旧飯田藩士・柳田家の養嗣子となり、3年後に養父柳田直平の四女孝と結婚した。
以来、昭和17年(1942)年まで本籍は祖先の地である飯田に置いたままにしていた。

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柳田は、墓参りや講演などあわせて7~8回伊那谷を訪れているが、そのたびに伊那民俗学徒らと交流し、多くの指導を与えた。

また、阿南町新野の雪祭を紹介し、『信州随筆』や『東国古道記』を著している。

柳田とその高弟折口信夫らの脈々とした研究と紹介によって、伊那谷の民俗は広く知られるようになった。

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