探険家の歴史 第2部 長江の旅 その5 蜀の国にて
羌族の村「桃坪村」 大きくしてみてね。 ↑
(最後に問題があります。見てね。)
成都は四川省の省都であり、中国西南地区における科学、商業、貿易、金融、交通、通信の中心地で、その面積は1万2400km2、人口は960万人(市街地人口は330万)である。
中国の北の都が北京、南の都が南京とすれば、西の都はこの成都。
成都市 天付広場 ↑
成都の都としての歴史は紀元前5世紀頃からで、成都という名称の由来は、周王朝の祖「古公亶父(ここうたんぽ)」の誓いの言葉「一年成邑、二年成都」(1年で町を作り2年で都を作る。)に由来する。
四川省は昔、蜀の国と言われた。
三国志の国、魏、呉、蜀の一つ蜀である。その蜀の都が成都であった。
その蜀の歴史では、三国志時代が最も有名だ。
天才軍師・諸葛孔明が「天下三分の計」を献策し、彼の主君である劉備が義兄弟の約束をした関羽や張飛とともに、魏の曹操、呉の孫権と天下を賭けて渡り合った時代だ。
成都市内南西の「武侯祠」という祠堂には、諸葛孔明ら三国志の英雄が祭られている。
武侯祠 諸葛亮殿 ↑
また、四川省は中国を代表する盛唐期の二大詩人、李白と杜甫にとってもゆかりの地。
「詩仙」と称された李白は蜀が出身地、ここで二十代半ばまで過ごした。
一方「詩聖」と称された杜甫だが、官職を辞し家族を連れ放浪の旅の後、四十八歳のころ成都にたどり着き、ここで五年ほど過ごした。
ここには、杜甫が二百数十編の詩を編んだ草堂が宋代に再建され、観光客に公開されている。
杜甫草堂 ↑
四川省は名所旧跡がいたる所にあり、ここを出身地とする歴史的な著名人も多い。
唐代では玄宗皇帝の相手として、傾国の美女に相応しい活躍をした楊貴妃がおり、現共産党政権下で鄧小平がいる。
彼は現実的感覚が極めて優れ、中国が経済大国に変わるための道筋をつけた。
サッチャーと鄧小平です。 ↑
鄧の考え方の一つに、「黒ネコでも、白ネコでも、ネズミをとってくるネコがいいネコだ」という言葉がある。(商人みたいでもあり、哲学者みたいでもある言葉だね。)
ところで、成都から50kmほど離れた広漢市内に、謎の「古代蜀国」の遺跡と言われている三星堆遺跡がある。
「古代蜀国」は、通説では日本の邪馬台国のような、呪術によって人心を統一し国を率いて行った古代宗教国家と考えられている。
「古代蜀国」がどのような民族によって築かれていたのかは不明だが、漢民族でないことだけは、その遺跡からの出土品により確かなようである。
出土品 縦目仮面 ↑
今から5000年前から3000年前、異民族(漢民族以外の民族)と思われる人々の作った国である「古代蜀国」が、長江の支流の岷江流域に栄えていた。
同じ頃、黄河の中・下流域には黄河文明が生み出した漢民族からなる商(殷)の国が栄えていた。
中国に初めて国家が形成された頃の話である。
殷の国は様々な自然神を信仰しており、亀の甲羅や牛の肩甲骨に文字を書いた甲骨文字や青銅器を使用していた。
政治は占いにより行われており、祭祀の度に多くの奴隷を生け贄として神に捧げていた。
占いで出た数字に寄り、生け贄にする者の数を決めた。
甲骨文字は、こんな文字 ↑
生け贄を処刑するのは、胴で出来た鉞(まさかり)で行った。
甲骨文字の記録には、多い時には奴隷として使っていた遊牧民族の羌(ちゃん)族人を一度に3000人程、この銅鉞で首を刎ねたと書かれている。
銅鉞です。どのくらいの人の血を吸ったことか・・・ ↑
1980年代に発掘された殷墟跡からは、首なしの白骨死体がごろごろ出てきた。
殷王朝は帝辛(紂王)の時が最も絶頂を極めたのだが、紂王は即位後、妲己(ダッキ)という美女に溺れ、酒池肉林という言葉の語源になったことまでやっていた。
すなわち酒で池を作り、肉をぶら下げて林を作り、男女を裸にしてその間で追いかけっこをさせて、昼夜ぶっ通しの宴会を連日催したのである。
牧野の戦いは、横暴を極めた殷に対して、古公亶父(ここうたんぽ)の曾孫である周の武王が釣りの諺で有名な太公望呂尚(異民族羌(ちゃん)族の出身)を参謀に、「古代蜀国」など様々な周辺国家(民族)を結集して戦った伝説的な戦いである。
牧野の戦いのあった場所は今は公園です。 ↑
周の武王の旗のもとに、古蜀の人々も集まり戦った。
戦いは朝始まり、殷の先頭集団で戦わせていた異民族の裏切りによって、夕方には終わり、戦争に勝った周の時代となる。
周の政治は殷の政治と違い、孔子が憧れて論語などで参考にするほど制度的には整っており、君子の政治が行われたという。
そして、今回紹介する少数民族は、牧野の戦いでも活躍した羌(ちゃん)族である。
羌(ちゃん)族の女性たち ↑
古代の商王朝(1000BC前後)の甲骨文字に、遊牧民「羌」として記され、奴隷として使われたり、祭祀の度に首を刎ねられたりした受難の少数民族「羌(ちゃん)族」。
今は人口20万弱の少数民族として、四川省西北部のアバチベット族羌族自治州(具体的には長江の支流である岷江の上流部)に集中して暮らしている。
この羌族という羊と人間が合体したような字を持つ、いかにも遊牧の民の末裔という感じの漢字(ダジャレ)を使用している民族には、以前から興味があった。
この羌族を訪ねることは、今回の蜀の国の旅の最も重要な目的となった。
彼等はチベット族によく似た住居に住み、村の中に巨大な石塔を持っていて、その古代民族「羌」が移動した大河の「道」には、現在も所々に高さ20~50メートルの巨大な石の塔が聳えているという。
この羌族の村を訪ねるため、成都をバスで朝6時半に出発し、2時頃に目的の桃坪村に到着した。
成都からは150kmくらいの山中の村である。
村の小川 ↑
羌族の集落は、どことなくネパール側のチベットの雰囲気に似ているように感じた。
そして、どこか、前に旅したインカ帝国の都マチュピチュにも似ていると思った。
悠久の歴史の中で、時代の波に翻弄されながら力強く生き続けている羌族に会えて、まるで古代中国の世界に招待されたような新鮮な喜びを覚えた。
トウモロコシが美味しかったよ。↑
ここで問題です。
あなたが生まれ変われたら、遊牧の民と農耕の民とどちらになりたいですか?理由も書いてね。
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