「オホーツク街道」の旅 その31 常呂遺跡を訪ねる
ワッカ原生花園の傍には、常呂遺跡がある。
オホーツク海をのぞむ海岸に沿って常呂川の河口からサロマ湖西岸へと続く幅約300メートル、長さ約2.7キロメートルの砂丘上に立地し、2,000基以上の竪穴住居跡および墳墓と推定される多数の小形の竪穴状遺構がある。
僕はワッカネイチャーセンターから目と鼻の先にある「ところ遺跡の森」を訪ねた。
「ところ遺跡の森」は、カシワ、ナラを中心にした落葉広葉樹の森林で、森の中には擦文文化(約1000年前)、続縄文文化(約1800年前)縄文文化(約4000年前)の竪穴式住居跡が138軒あり、擦文4棟、続縄文1棟、縄文1棟の復元住居がある。
森の一隅にある「遺跡の館」は、縄文時代の円形竪穴住居をモチーフにした外観で、館内は視覚的に古代のロマンを体感できる構成になっている。時代順に、縄文の村から見ていく。
次は続縄文の村。
本州では大陸から稲作、金属器が伝わり弥生時代が始まるが、北海道では縄文時代と同じ狩猟、漁労、植物採取が続いていた。
この時代を縄文時代からの続きという意味で続縄文時代と呼んでいる。およそ2,000年前から1,300年前まで続いたとされている。石器と鉄器の併用の時代である。常呂町内でも、この続縄文時代の遺跡は、擦文時代に次いで多い。
次は擦文の村。
この時代は本州の奈良・平安時代とほぼ同じ頃にあたり、住居の形、構造などに影響を受けている。土器は表面を木のヘラで擦(こす)った跡があることから擦文土器といい、この時代を「擦文時代」という。
石器は殆ど使用されず、鉄器が本州方面から入っていた。また畑作(アワ、ヒエ、ソバ等)も行われるようになった。8世紀から13世紀にかけてである。
常呂町内ではこの時代の遺跡が最も多く、常呂遺跡の住居跡群の約半分はこの時代のものである。
次はオホーツク文化である。
この文化は7世紀から13世紀にかけて北海道北部・東部のオホーツク海沿岸、千島列島、樺太に発展した文化である。
人々の生活は、アザラシ、オットセイなどの海獣狩猟、漁労を中心としており、ブタや犬も飼っていた。住居や墓は独特なものであり、遺物の中にもシベリアなど大陸方面からもたらされた青銅製品、鉄器などがあり、同時に本州製の鉄器も持っている。この文化の起源、社会生活、民族については不明な点が多く、謎の民族とされている。この常呂遺跡では、この文化の住居跡47軒が確認されている
次はアイヌ文化である。
アイヌとは「人」を意味する言葉である。考古学上のアイヌは擦文文化の後14~15世紀頃に成立したと考えられている。彼らは動植物が豊富に獲れる川・湖の周辺に集落(コタン)を作り、畑作を中心とする小規模な農耕を行っていた。また、壕を堀り柵を巡らした砦(チャシ)も築かれた。チャシは祭り場、談合の場、見張り台としても利用されたと考えられている。アイヌ文化は時代を経るごとに本州からの和人の支配を受けて大きく変容していった。
ここで、北海道の古代文化をもう一度復習するいい機会を得た。
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