探険家の歴史 第2部 長江の旅 その6 昆明にて

画像


画像




 長江の旅は、四川省から雲南省に入った。

 長江という名も、四川盆地を流れる岷江との合流点である宜(ぎ)賓(ひん)からは、金沙(きんさ)江(こう)と名前を変える。


 雲南はアジア大陸の古人類発祥の地といわれ、400万年前には猿人類「東方人」、187万年前には直立人「元謀人」が生息していたと言われている。


 司馬遼太郎は「中国・蜀と雲南の道」で、雲南省を天涯(そらのはて)と表現している。


 あのそらの果てには、もうミャンマー、ラオス、ベトナムの地が広がる、それらの地とここは国境なのである。


 同時に雲南省は、25もの少数民族が暮らす、多民族の合衆国であり、少数民族にとっては別天地でもある。  漢族の割合は2/3、3人の内1人は少数民族である。


 中国政府は少数民族については優遇政策を採っており、漢民族の1人に対して、少数民族には、2人まで子どもを認めている。


画像

    昆明の街並   ↑


 雲南省の省都「昆明」は一年中温暖で人口400万人を要しており、地図上は中国の端だが、高層ビルも林立し、意外なほどの大都市。


 標高が2000mと高地にあり、夏でも暑くならないし、冬でもめったに雪が降らないので、昆明は春城」と呼ばれている。


 昆明到着の夜、僕は地元ではけっこう有名なバーで飲んでいたが、そこには外国人や漢民族に混じって、きらびやかな民族衣装をまとった多くの少数民族の若者が酒を酌み交わしていた。


画像

   昆明1の繁華街 三市街 ここの裏通りのバーで飲んだ ↑  


 盛唐時代、西安の都では異民族の若者が闊歩し、異民族の踊り子が舞い、シルクロードの拠点都市としてグローバルな雰囲気を醸し出していたというが、今の昆明も同じようなものだと感じた。




 そして、今宵僕は、多民族で賑わう繁華街の大劇場で、今回のヒロイン楊麗萍率いる『雲南映像』を見た。


画像

   楊麗萍さん、きれいだったよ ↑


 楊麗萍は雲南・大理生まれのペー族の女性、「踊る精霊」と言われている。


 その楊麗萍の率いる舞踊団の大型民族ショーが『雲南映像』。『雲南映像』は中国だけでなく、世界中で賞賛を受け、一つの文化現象にまでなっているという。


 踊り手たちは、少数民族の村から選ばれた踊りと歌の名手ばかりだが、プロではない普通の人々である。


 その踊り手達が、田植えや糸紡ぎ、臼回し、木の枝を避けて歩く様子、蟻の歩み、蛙のでんぐり返し、トンボの産卵……生活の中で普通に見られる動作を、踊りの形をとって舞台上で演じていく。


画像


 楊麗萍が一年以上かけて、雲南省のほとんどすべての山村を歩き回り集めた少数民族の歌舞、その歩いた距離は、1万キロ以上に達する。ある山村へは3回も出かけた。


 こうして、専門家から20年以内に消滅するだろうと指摘されていた、少数民族に千年も伝えられて来た歌舞は生き残り、世界の人々の前に出現した。


 少数民族の生活が、愛が、命の営みが120分の濃密な上演時間の中で演じられていく。


 故郷で、お祖父さんが亡くなったとき、お祖母さんが唄った『葬歌』、娘が嫁に行くときには決まって唄われた『嫁入りの唄』などが続き、彼等の死生観や家族に対する熱い気持ちまで伝わってくる。


画像

    楊麗萍の代表作、孔雀の舞い  ↑


 楊麗萍は、「本当の舞踊は、観衆が見て分からないものであってはいけない。

 一つ一つが人間性とつながっていなければなりません。それでこそ人の心を打つことができるのです」と言う。


 今宵の夢のようなショーを見ているうちに、雲南少数民族の生活様式やその哲学さえもが、僕には理解できるような気がした。



画像

    滇(てん)池(いけ) ↑



 昆明の近くに滇(てん)池(いけ)という名の湖があるが、このほとりに、「滇(てん)王国」という謎の王国があった。


 紀元前400年から紀元後100年くらいまでの間栄えていたというが、日本では弥生時代、中国では戦国から前漢、後漢といわれた時代の頃である。


 滇(てん)王国は、長江文明を担った人々が北方から来た畑作牧畜の漢民族に追われて、雲南の地に作った稲作漁労民族の王国であると、安田喜憲氏はその著「長江文明の謎」の中で言っている。


 長江文明を発展させた稲作漁労の民は、雲南の地で滇(てん)王国を興し、日本に渡って弥生文化を興した。


 長江文明を親とすれば、滇(てん)王国と弥生文化は兄弟のようなものである。

 その日本のルーツとも言える苗族など少数民族、日本人の兄弟とも言える人々の住んでいる国に、とうとう僕は辿り着き、その歌舞を楽しみ、まるで盛唐時代の国際都市「西安」のような夜を過ごしている。


 司馬遼太郎は昆明のホテルでの夜を鳥居龍蔵博士の伝記を読んで過ごしたというが、僕もそれにあやかり、夜遅くまで彼の中国での調査報告を読んでいた。


画像

    鳥居龍蔵博士です   ↑


 明治の時代、日本人の源流を求めてアジア各地を精力的に踏破した人類学者兼探検家が鳥居龍蔵、研究テーマの根幹は「日本人のルーツ」、つまり日本人はどこから来たのかという疑問への挑戦だった。


 彼は雲南省など西南中国を回り、苗族と台湾の少数民族である生番族が同じルーツを持つという仮説を立てた。


 この仮説は、長江文明の発見により、今立証されようとしている。


 日本人は、苗族や台湾の生番族と同じ文化を受け継いでいたのである。


 鳥居龍蔵は、1870(明治三)年、今の 徳島市 船場町、 新町 川沿いの四国でも屈指のたばこ問屋に生まれた。


 独学して創設されたばかりの、東京人類学会の会員になり、90年、二十歳で上京。

 その後人類学者として、アジアを中心に世界各地を調査・探検した。


画像

   モンゴルを調査する鳥居隊  ↑


 1922年、東京帝大助教授のいすを得たものの、独学者への風当たりは強く、他の教官と対立し、辞職。


 39年、中国・燕京大(後に北京大に吸収)に客員教授として招かれ、一家で移住、51年帰国。


 手記に「私は学校卒業証書や肩書で生活しない。

 かの聖人の言に『朝に道を聞いて夕に死すとも可なり』とある。

 この言は私の最も好む所」とある。


 遠くシベリアから台湾、韓国、中国、モンゴルまでも縦横無尽に踏破した民族学、考古学史上の巨人、鳥居龍蔵は82歳で永眠した。


画像

   晩年の鳥居博士  ↑



ここで問題です。  




 雲南の少数民族で一番人口の多いのは次の何族ですか? 




 1 苗(ミヤオ)族 2イ族 3ペー族 




回答を


 コメント欄に書いてね。

.

この記事へのコメント