石狩川への旅 その4 「鰊(にしん)御殿」にて

 これから僕は、小樽そのものを象徴する建物を見学に行く。それは小樽市祝津にある北海道指定有形文化財の「鰊御殿」である。
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 江戸時代、経済の基盤は米であったが、渡島半島の南西部を所領としていた松前藩の場合、鰊(ニシン)が経済の基盤をなしていた。(鰊は当時は[魚に非ず]と書いて米相当の扱いだった。)

 幕末には幕府は蝦夷地を直轄領として領土の中に組み込み、小樽はこの頃から鰊漁のための定住者により集落化していく。

 漁獲された鰊は、ニシン粕身欠ニシン干数の子等に加工され、一部は生食用として販売された。

 加工されたニシン製品は北前船に乗り、主に関西方面へ運ばれ、中でもニシン粕は肥料として日本の農業を大きく支えた。

 その北前船(きたまえぶね)
とは、江戸時代から明治時代にかけて、上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から関門海峡を経て瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)、及び、この航路を行きかう船のこと。航路は後に蝦夷地(北海道;松前、江差、小樽が寄港地となる。)にまで延長された。
(余談だが、僕が乗船した新日本海フェリーは、北前船と同じ航路を取るため、現代の北前船
と呼ばれている。)

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  この写真は、明治時代に行われていた建網鰊漁の沖上場面枠船が陸地近くまで鰊を運び、大タモを使って汲船に汲み上げられるシーン。

鰊の漁獲方法については建網によるものと刺網によるものがあったが、建網について説明すると、漁師たちは夜通し海上で腹ごしらえと仮眠をしつつ、出番を待っている。

 鰊が網に入ると、船頭が号令を発し、起こし船に並んだ男たちは、一斉に網を手繰り、船頭が流すドースコイの切り声に下声で答えながら起こしていき、枠船に近づいていく。そして枠船の船底につながれた枠網の中に鰊を追いこむ。

 鰊でいっぱいになった枠網は、枠船が陸地近くまで運んでいく。そして、大タモを使って汲船に汲み上げられる。汲船が廊下に到着すると、モッコ背負いたちが鰊を加工場に運んでいく。これが戦場のような雰囲気の中で繰り返されていく。

 鰊漁が当れば一網千両、万両といわれる大金が転がり込むのだから、誰もが眼の色を変える。

 ゴールドラッシュのような騒近かっただろう。


 北上する鰊を追って、人が動き、物が動き、金が動いた時代である。


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 小樽市祝津にある北海道指定有形文化財の「鰊御殿」の遠景である。この高台建物のむこうには鰊を育んだ宝の海、日本海が広がる。

 この建物の所有者である田中福松氏も、鰊漁で大儲けをした鰊親方の一人である。
 
 
 当れば巨万の富が手に入り御殿暮らしが出来るゴールドラッシュのような時代を象徴する歴史的建造物である。

 
 だが、鰊の来遊は南から順に途絶え、明治30年代には、秋田、青森、昭和30年には留萌地方でも激減、昭和32年には日本海春鰊漁は完全に幕を下ろすことになる

 その原因として三説があげられている。

 一説目は、暖流の勢力が強くなったことや異常な海流蛇行による海流の変化、地球温暖化などの影響により海水温が上昇したため、海水の温度に敏感な鰊は海水温の上昇を避け、冷たい海を求めて北へ北へと移動していったという考え。

 二説目は漁獲量の制限をせず乱獲を行ったため、鰊は子孫を残せないほど減少してしまったという考え。
 
 三説目は北海道を開拓するのに森林を伐採したため、さらには海岸線のコンクリート化により、森林から海へ与えられていた栄養が断たれ、これが海の砂漠化と呼ばれる磯焼けを招き、鰊の産卵場所である海藻の減少をもたらしたという考え。
  」

 その三説がからみあって、鰊の日本来遊は激減したのだろう。

 
 ロシアのシベリア進出クロテンとラッコを求めてのものだったことを考えると、案外日本の北方進出の真の理由も、北上する鰊を追って、人が動き、物が動き、金が動いた結果と言えなくもないと考える。
(むろん、鰊だけが求めた宝物ではないと思うが・・・)
    

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