奈良大和路散歩(2016年の旅) その31 今井町を散策 その2
休憩後、今井町の本格的な見学を開始、まず今井まちや館である。
明治以降空家の期間が長く、破損が甚だしい状況になっていた十八世紀初期頃の今井町の商家特有の造りの町屋を復元公開した建物である。
土間からまち屋館に入っていく。
手前が「おうえ」と呼ばれた部屋で、その奥に「なんど」と呼ばれた部屋がある。
二つの部屋の境に帳台構えという、床より一段高くした敷居があり、「なんど」は敷居の高い部屋となっていた。
現在「なんど」はもの入れの部屋のことだが、十七世紀頃は夫婦の寝室として使われていて、当時は三方を壁で囲んで金庫のようにしていて、この部屋に貴重品を収納していた。
まち屋館の奥に入って手前の台所と呼ばれた部屋から他の部屋を紹介すると、左下の部屋が仏間、右隣りがなんど、その向こうの部屋が店奥、店奥の右の板張りの部屋が店の間と呼ばれていた。
次は重要文化財となっている今西家住宅である。
この建物は1650年に裁判を行うために改築された陣屋で、土間をお白州に見立ててお裁きが行われていた。
今井町を囲む西環濠辺りから見るとまるで城のようであるが、1560年代には今井郷の西端の要塞として櫓・城郭及び住居が築かれていて、今でもその当時の雰囲気を残している。
西環濠辺りを歩きながら、今西家のことを考えた。
今西家は古代豪族十市県主の一族で、今井町の自治を担っていた名家だった。
十市氏という氏族は、日本書紀・古事記の文脈のなかでは大王家がもっとも尊重した姻族であったらしい。
ただ姻族関係は、その実在が疑われている欠史八代(第2代綏靖天皇~第9代開化天皇)の頃のことである。
十市県主の宗家は、神武東遷以前から三輪山の西麓を本拠地にして奈良盆地の東側を治めていた豪族磯城(しぎ)氏で、祖神は大物主神と云う説もあり、大物主は一般的には大国主と考えられている。
なお、シキは鋪、坑で鉱山の坑道(採掘跡)のことで、磯城、志紀、志貴、師木、式、敷などとも書く。
奈良盆地は踏鞴製鉄に適した絶好の場所で、磯城氏は金属採掘、踏鞴製鉄の部族であり、十市県主はその流れの一族であったという。
本当か嘘かもわからない古い時代の話に、しばらく頭を奪われた。
今井町で最後に訪れたのは称念寺である。
称念寺は今井町にある浄土真宗本願寺派の寺院で山号は今井山、今井御坊とも称される。
1877年明治天皇行幸の行在所となった折りに西郷隆盛挙兵(西南戦争)の一報が入ったという逸話が残っている。
寺は河瀬権八郎兵部尉宗綱が石山本願寺の顕如上人から寺号を得て、今井郷に念仏道場を建てたことに始まる。
豊臣秀吉政権下では手厚く庇護され、河瀬姓から今井姓に改め武士と僧侶の身分を持ち、秀吉の吉野花見の際には「兵部茶屋屋敷」を建てて秀吉を招いている。
道場から称念寺となったのは1600年頃とされ、幕府によって郷中並とされ武士の身分を返上したという。
称念寺は寺内町として大きく発展した今井町の、文字通り中核を担っていた寺であった。
今井町を見終え、午後2時半頃、猛暑と向かい風の中を1時間程かけてホテルへ帰った。
最後の帰路はだいぶ疲れてしまったが、2日間かけての飛鳥路のレンタサイクルの旅は、僕にとっては追い風の旅となった。
夕食のホテルの懐石料理はまたも絶品で、この夜も幸せな夢が見れた。
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