吉備王国へのみち その32 岡山城
牛窓オリーブ園から、次に岡山市内にある岡山城に向かった。
岡山城までは30km程、1時間ほど走って岡山城に到着した。
岡山城は岡山市内の中心地にあり、近くには岡山県庁や後楽園がある。
岡山城は旭川下流に広がる岡山平野に立地、周辺は生産性の高い穀倉地帯で、山陽道の陸路と瀬戸内海へつながる旭川による水路の両方を利用できる重要な場所だった。
戦国時代に備前東部から興って、美作、備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われた城である。
岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設されたが、当時旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。
その中の石山にあった石山城に宇喜多直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造されたが、これが岡山城である。
岡山城を近世城郭として造り上げ、体裁を整えたのが宇喜多秀家で、豊臣政権下の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始、秀吉に重用されていた。
元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。
秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、天正16年(1588年)以前に秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室としたため、外様ではあるが秀吉の一門衆としての扱いを受けることとなった。
関ヶ原の戦いで西軍について敗れて領国を失うまで、備前岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。
その後の宇喜多秀家が気になったので調べてみた。
関ヶ原の戦い後、宇喜多家は家康によって改易されたが、秀家は伊吹山中に逃げ込み、その後京の太秦に潜伏、同じ西軍側であった島津義弘などを頼って薩摩国に落ち延び、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿われた。
このとき秀家が島津氏に兵を借り、琉球王国を支配しようとしたという伝説も残っている。
しかし「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡された。
島津忠恒、並びに縁戚の前田利長の懇願により死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉され、慶長11年(1606年)4月、同地での公式史上初の流人として八丈島へ配流となった。
八丈島では苗字を浮田、号を久福と改め、妻の実家である加賀前田氏や宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて50年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたとも伝えられる。
この墓は、八丈島の宇喜多秀家の墓である。
秀家は八丈島を所領としていた源(みなもと)家によく招かれ、宴を楽しんだ記録が残っているが、源家は宗福寺の住職も兼ねていて、この寺は宇喜多家の菩提寺となっている。
明暦元(1655年)11月20日、享年84で秀家は死去した。
既に江戸幕府第4代将軍徳川家綱の治世で、関ヶ原に参戦した大名としては最も後まで生きた。
岡山城までは30km程、1時間ほど走って岡山城に到着した。
岡山城は岡山市内の中心地にあり、近くには岡山県庁や後楽園がある。
岡山城は旭川下流に広がる岡山平野に立地、周辺は生産性の高い穀倉地帯で、山陽道の陸路と瀬戸内海へつながる旭川による水路の両方を利用できる重要な場所だった。
戦国時代に備前東部から興って、美作、備中東部まで勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、その後小早川氏、池田氏により整備、拡張が行われた城である。
岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設されたが、当時旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。
その中の石山にあった石山城に宇喜多直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造されたが、これが岡山城である。
岡山城を近世城郭として造り上げ、体裁を整えたのが宇喜多秀家で、豊臣政権下の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始、秀吉に重用されていた。
元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。
秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、天正16年(1588年)以前に秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室としたため、外様ではあるが秀吉の一門衆としての扱いを受けることとなった。
関ヶ原の戦いで西軍について敗れて領国を失うまで、備前岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。
その後の宇喜多秀家が気になったので調べてみた。
関ヶ原の戦い後、宇喜多家は家康によって改易されたが、秀家は伊吹山中に逃げ込み、その後京の太秦に潜伏、同じ西軍側であった島津義弘などを頼って薩摩国に落ち延び、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿われた。
このとき秀家が島津氏に兵を借り、琉球王国を支配しようとしたという伝説も残っている。
しかし「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡された。
島津忠恒、並びに縁戚の前田利長の懇願により死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉され、慶長11年(1606年)4月、同地での公式史上初の流人として八丈島へ配流となった。
八丈島では苗字を浮田、号を久福と改め、妻の実家である加賀前田氏や宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて50年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたとも伝えられる。
この墓は、八丈島の宇喜多秀家の墓である。
秀家は八丈島を所領としていた源(みなもと)家によく招かれ、宴を楽しんだ記録が残っているが、源家は宗福寺の住職も兼ねていて、この寺は宇喜多家の菩提寺となっている。
明暦元(1655年)11月20日、享年84で秀家は死去した。
既に江戸幕府第4代将軍徳川家綱の治世で、関ヶ原に参戦した大名としては最も後まで生きた。
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