奈良大和路散歩(2016年の旅) その32 竹内街道をゆく
3泊して飛鳥路散歩の拠点となったホテルウェルネス大和路とも、今朝の朝食でお別れである。
こんな洗練された朝食を3回いただいて、夕食は完璧な和風料理でこれも3回、僕の旅にしてはあまりにも贅沢と言える3泊だった。
2日間に渡って旅のお供をしてくれた自転車達に別れを告げ、今日は竹内街道と葛城みちなどをレンタカーで駆け抜ける。
こんな日程を組んだが、なにしろ初めてレンタカーに乗るので思うようには行かず、事故にならないようにするのが精一杯だったので、結果として日程の3分の2も行くことが出来なかった。
ホテルからタクシーに20分程乗り、大和八木駅の日本レンタカーを目指したが、このタクシーがいい加減でレンタカー会社を間違えたため、この付近で20~30分程レンタカー会社を探して回り、最後は八木駅の交番に聞いてどうにか目的の日本レンタカーを探しあてて、疲れきって会社に辿り着いた。
ここで予約してあった1500ccの乗用車タイプのカローラを借りて、おっかなびっくりスタートした。
慣れないことと渋滞に巻き込まれたことが原因で、予定していたよりもずっと時間が掛かり、10時を過ぎてようやく目的の竹内集落に到着した。
竹内街道(たけのうちかいどう)は、大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る約26 kmの街道であるが、この長尾神社を目指して車を走らせていたが、ナビがこの地を正確に捉えられず、車の操作であせったりしていたこともあって、なんとか黄星印の「柿の葉すし本舗 たなか葛城店」前の駐車スペースに停めるのがせいいっぱいだった。
予定していた長尾神社から竹内街道を散策することは出来ず、たなか葛城店から出発して竹内街道を綿弓塚まで往復した程度にとどまった。
竹内集落のある竹内街道沿線は、司馬遼太郎が幼少期を過ごした場所である。
司馬は大阪市浪速区西神田町(現:塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。
兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。
乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に里子に出されていた。
この竹内は司馬の母の実家のある集落である。
ここで彼は実家の周りの古墳群から土器のかけらや石鏃などを拾い集めていたり、大陸の馬賊に憧れたりしていた。
司馬は昭和18年の秋に兵隊行きの日が迫ってくる中で、どうせ死ぬのだからという気持ちでこの坂をのぼったとき、坂の上の村はずれから自転車で転がり落ちてきた赤いセーターの葛城乙女にすれ違いざまにキラッと微笑されて、にわかに恋に落ちたような気がしたことなどを、「街道をゆく 竹内街道」の中に綴っている。
その葛城乙女とすれ違ったと思えるようなあたりまで歩いてみたかった。
集落の中を歩いて行くと、綿弓塚と書いてある矢印の設置してある古民家があった。
この古民家の前の道を左手に曲がった。
芭蕉の木が植えてある前に、綿弓塚の説明とこの地で芭蕉の詠んだ句の紹介があったので読んでみた。
芭蕉の「野ざらし紀行」に「綿弓や琵琶に慰む竹の奥」とあるが、この句を記念するために芭蕉没後150年を経た文化6年10月に綿弓塚という石碑が建てられた。
この地は芭蕉の門人千里の郷里で、彼の案内で数日感この地に滞在して、當麻寺に参拝した。
この他にも、度々芭蕉はこの地を訪れて名句を詠んでいるという。
この庭の隣に古民家があり、そこが歴史資料館となっていたので、しばらくそこで古民家を流し見ながら小休憩とした。
この後、綿弓塚と司馬の母の実家を見たが、当時と様子が格段に違っていると思われたので省略する。
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