九州散歩Ⅰ その32 オランダ塀

 下の図は、オランダ商館跡の鳥瞰図である。
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 Cが、今まで説明して来たオランダ埠頭である。

 すぐ近くのDは、常灯の鼻石垣である。
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 1616年、1618年、1639年の埋立てに伴う護岸として建造されていて、1610年代に築造された石垣の多くは、その後さらに海側が埋立てられたため、発掘調査により地中に埋設していることが確認されている。

 次にBのオランダ井戸であるが、Aのオランダ塀と共に、平戸オランダ商館を代表する現存遺構となっている。
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 現在はオランダ井戸と称され、寛政4年平戸六町図には、「阿蘭川」と記されていて、築造に関する記録はない。

 司馬さんの「街道をゆく 肥前の諸街道」の中の平戸の章には、この井戸はこう書かれている。
 「この家並みから道路をへだてた向かいにオランダ井戸がある。一辺が約二メートルの四角い井戸だが、みごとに保存されている。のぞくと、光りのとどくかぎり、ふちに青い羊歯がはえている。穿たれた場所は海ぎわなのだが、水に塩分がないという。」

 そして最後にオランダ塀である。
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 江戸時代初期に平戸オランダ商館が存在していたことを最も良く示す遺構で、商館主体部と市街地の間に建てられたもので、火災や難防止、 住民の視界からさえぎることを目的として建設されたものである。

 このオランダ塀も、塀の立つ坂の道「オランダ坂」とともに、「街道をゆく 肥前の諸街道」の中に紹介されている。

 「オランダ坂とよばれるせまい石段をのぼった。すべて蘭館の構内の石段で、一般人を往来させるためにつくられた石段ではない。石段は、いわゆるオランダ塀によって海側に沿って囲われている。塀は目かくしよりも防塁を意識したと思われるほどに頑丈なもので、石塁を一重に築き、石と石との間をシックイで接着し、さらにはシックイでもって外面の化粧まで施されていた感じである。まことに堅牢にできている。」
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 司馬さんは更にオランダ塀について思考を進めていく。

 「オランダはスペインとの間の長い独立戦争を戦って国家を成立させた経緯があるので、この商館がスペインなどのカトリック勢力からいつ攻撃されぬとも限らないという懸念が、この頑丈な塀にあらわれているのではないか。塀は海上からの攻撃よりも石段を守るために存在している。いざというときには、この石段は丘の中腹にある商館長宅へ走るための唯一の道路となるので、石段を行き来する人の命を守るためにこの頑丈な防塁を築いたにちがいない。」

 このあと、司馬さんはオランダ人の民族性についてふれながら、日本人の防衛観念の薄さについて論じていくが、
僕はこれからこの「オランダ坂」の石段を降りてしばらく平地を歩き、再び「お部屋の坂」をのぼって、そこにある松浦史料博物館へ向かう。


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