「街道をゆく」で出会った「日本を代表する人物」 その2 オンコロマナイ遺跡の前で草取りをして社会に貢献!!
オンコロマナイ遺跡は実は去年行く予定にしていたのだが、例の台風15号の進路が気になって、早々に宗谷を逃げるように退散した心残りの場所である。
今年の旅は台風を避けての旅であり、ここまでは非常な好天に恵まれている。
インターネットでオンコロマナイ遺跡の情報をあらかじめ仕入れていたのだが、それでもすぐにはこの場所に着けなかった。
恩頃間内川やその上に架かっている恩頃間内橋を、それと分からず大分通り過ぎてから後戻りして、やっと恩頃間内川に到着した。
オンコロマナイ遺跡はオンコロマナイ川河口左岸の海岸砂地に営まれ、川によって削られた崖に薄い貝層が露出し、川岸から50m程の拡がりがあったという。
昭和34年、泉靖一が東大助教授時代の44歳の時、宗谷中学校の飯田先生と地元の佐藤さんという郷土史家の案内で、海岸の貝塚と丘上の竪穴を見て回った。
「ひょっとすると、この貝塚と竪穴から、北海道のオホーツク式文化の祖型があらわれるのではなかろうか?」と泉靖一は考え、ここの発掘を思い立ったという。
泉靖一を中心とする東大文化人類学教室と地元の学者さん達で結成された発掘隊は、この発掘調査によって5体のオホーツク文化期の人骨を発掘した。
泉靖一はこの発掘調査に息子の拓良も同行させている。
だがこの発掘調査は災難続きで、泉自身は縫合を必要とするほどの怪我をしたり、また発掘途中の10月21日には母ハツヨの訃報まで届いて、彼は一旦葬式のため東京へ戻り、再び現地で発掘の指揮をすることになる。
泉靖一はオンコロマナイ遺跡の発掘責任者であり、オンコロマナイ遺跡の発見者であるが、一つの遺跡の発見には順風万歩とはいかないストーリーが何かしらあるようである。
昭和41~43年にも再度調査が行なわれ、3体の人骨が新たに発掘された。
8体の人骨は額が広く顔の高さが低く幅が広い、眼窩は横長の長方形で眉間が発達し、鼻根部が立体的で下顎枝の幅が非常に広いなどの特徴があり、「オンコロマナイ人」として詳しく報告されている。
泉靖一が歩いた場所を、司馬遼太郎も歩いた。
彼は恩頃間内川のほとりに立って、恩頃間内橋という標柱を目の前にして立っている。
これはオホーツク街道のワンシーンだが、僕も司馬遼太郎の見た標柱を目の前にして立っている。
恩頃間内橋の背後の丘一帯が、竪穴があり人骨の見つかったオンコロマナイ遺跡、海岸の貝塚も、もちろんオンコロマナイ遺跡である。
道路わきにオンコロマナイ遺跡を示す案内板があるということで、丘方向に歩いて行く。
探すのにけっこう苦労したが、生い茂った草に隠れるようにして設置されている案内板を発見、こんなどうでもいい案内板なのだが、気分は泉靖一がオンコロマナイ遺跡を発見した時のように盛り上がった。
気分が高揚したついでに、ほんの少しでも世の中に良い事をしたいという欲望に駆られて、この案内板の前の除草を思い立った。
除草すること20分ほど、結構本気モードで護身用のナタを振り回して、稚内市の文化財行政に協力した。
インターネットでも、オンコロマナイ遺跡は何処にあるか分かりにくいと書かれているので、もう少し稚内市はこういうものに気配りをしてもらいたいとも思って、敢えて除草の行動に出た。
その結果として、ここまで見やすくなった。
時間があればもっとやっても良かったのだが、このぐらいでご勘弁を。
1週間も経てば元に戻るだろうけれども、泉靖一と司馬遼太郎に敬意を評して、こんな行動となった。
人類学者であり探検家でもあった泉靖一の高貴な魂が安らかに眠らんことを、僕はこのオンコロマナイ遺跡の元発掘現場で、心から願った。
今年の旅は台風を避けての旅であり、ここまでは非常な好天に恵まれている。
インターネットでオンコロマナイ遺跡の情報をあらかじめ仕入れていたのだが、それでもすぐにはこの場所に着けなかった。
恩頃間内川やその上に架かっている恩頃間内橋を、それと分からず大分通り過ぎてから後戻りして、やっと恩頃間内川に到着した。
オンコロマナイ遺跡はオンコロマナイ川河口左岸の海岸砂地に営まれ、川によって削られた崖に薄い貝層が露出し、川岸から50m程の拡がりがあったという。
昭和34年、泉靖一が東大助教授時代の44歳の時、宗谷中学校の飯田先生と地元の佐藤さんという郷土史家の案内で、海岸の貝塚と丘上の竪穴を見て回った。
「ひょっとすると、この貝塚と竪穴から、北海道のオホーツク式文化の祖型があらわれるのではなかろうか?」と泉靖一は考え、ここの発掘を思い立ったという。
泉靖一を中心とする東大文化人類学教室と地元の学者さん達で結成された発掘隊は、この発掘調査によって5体のオホーツク文化期の人骨を発掘した。
泉靖一はこの発掘調査に息子の拓良も同行させている。
だがこの発掘調査は災難続きで、泉自身は縫合を必要とするほどの怪我をしたり、また発掘途中の10月21日には母ハツヨの訃報まで届いて、彼は一旦葬式のため東京へ戻り、再び現地で発掘の指揮をすることになる。
泉靖一はオンコロマナイ遺跡の発掘責任者であり、オンコロマナイ遺跡の発見者であるが、一つの遺跡の発見には順風万歩とはいかないストーリーが何かしらあるようである。
昭和41~43年にも再度調査が行なわれ、3体の人骨が新たに発掘された。
8体の人骨は額が広く顔の高さが低く幅が広い、眼窩は横長の長方形で眉間が発達し、鼻根部が立体的で下顎枝の幅が非常に広いなどの特徴があり、「オンコロマナイ人」として詳しく報告されている。
泉靖一が歩いた場所を、司馬遼太郎も歩いた。
彼は恩頃間内川のほとりに立って、恩頃間内橋という標柱を目の前にして立っている。
これはオホーツク街道のワンシーンだが、僕も司馬遼太郎の見た標柱を目の前にして立っている。
恩頃間内橋の背後の丘一帯が、竪穴があり人骨の見つかったオンコロマナイ遺跡、海岸の貝塚も、もちろんオンコロマナイ遺跡である。
道路わきにオンコロマナイ遺跡を示す案内板があるということで、丘方向に歩いて行く。
探すのにけっこう苦労したが、生い茂った草に隠れるようにして設置されている案内板を発見、こんなどうでもいい案内板なのだが、気分は泉靖一がオンコロマナイ遺跡を発見した時のように盛り上がった。
気分が高揚したついでに、ほんの少しでも世の中に良い事をしたいという欲望に駆られて、この案内板の前の除草を思い立った。
除草すること20分ほど、結構本気モードで護身用のナタを振り回して、稚内市の文化財行政に協力した。
インターネットでも、オンコロマナイ遺跡は何処にあるか分かりにくいと書かれているので、もう少し稚内市はこういうものに気配りをしてもらいたいとも思って、敢えて除草の行動に出た。
その結果として、ここまで見やすくなった。
時間があればもっとやっても良かったのだが、このぐらいでご勘弁を。
1週間も経てば元に戻るだろうけれども、泉靖一と司馬遼太郎に敬意を評して、こんな行動となった。
人類学者であり探検家でもあった泉靖一の高貴な魂が安らかに眠らんことを、僕はこのオンコロマナイ遺跡の元発掘現場で、心から願った。
この記事へのコメント