吉備王国へのみち その33 磯田道史氏、岡山城を語るⅠ

 まず、岡山城天守閣から入っていく。

 岡山城天守閣は、「何層何階」というのが一見して分かりづらい複雑な構造をしている。
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 立面図からその構造を見ると、2層の大入母屋基部を2つ重ねた上に2層の望楼部を乗せた形をしていることが分かる。
 3つの大入母屋屋根を有することも大きな特徴で、岡山城のほかには熊本城のみに見られる珍しい構造である。

 そしてここからは、歴史家の磯田道史氏により、岡山城を解説してもらう。
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 磯田氏は岡山市の出身で、小さい頃から岡山城が大好きだったそうである。
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 岡山城には金の鯱が沢山ついているが、普通のお城にはこんなに多くの鯱をつけることができなかった。

 宇喜多秀家は豊臣秀吉にとても可愛がられていたので、秀吉の指導の下でこんな岡山城を造ることができたのである。
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 あの黒い部分は下見板張りで、漆を塗った板を張り付けたものである。

 姫路城はより新しい時代に造られた城なので、漆喰を塗って造られているが、岡山城のような下見板張りの城は、松本城くらいのものである。
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 また、岡山城は赤〇印で判るように不当辺五角形の天守を持つ城で、織田信長が安土城で造ったものを受け継いでいるのが岡山城で、全国的にも珍しい城である。

 これは宇喜多秀家の妻が織田信長の家来の前田利家の娘で、その妻と一緒に来た方の中に、この岡山城を造った者がいたのではないかと磯田道史氏は推測している。
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 磯田道史氏はここから更に熱っぽく話していく。

 岡山城は不思議な城で、普通は堀の真ん中に天守を置くのだが、この城は堀の東側の端に天守を建てていて、西側には何重にも防御の仕掛けを造っているが、東側には何も造ってないのである。

 その訳を磯田氏はこんなふうに推測していく。

 この岡山城はもっと西にいる毛利家と戦うために建てた城で、東側はいざ毛利と戦争ということになれば必ず大阪から豊臣秀吉が助けに来てくれるので、東側は防御をする必要がなかったのであると。

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