日本という呼称の起源について

言語の歴史は人類の起源ほどにはわかっていないらしいが、人類の移動・拡散に伴ってどんどん数を増やしていった言語の数は、かって1万種以上もあったということだ。

 それが文化のグローバリゼーション(地球規模の文化の均一化)によって、現在は6千語くらいしか話されていないという。

 その言語を語族として分類すると大まかに20くらいの数となるが、それを図示したのが下表である。

 
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 しかし、今後固有の言語が失われるスピードは速まり、全言語の5割から9割くらいが、ここ100年の間に消滅するという予想がある。


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 その話は置いておいて、日本が属する東アジア(中国とロシアを含む)の国々を見てみると、ほぼアルタイ語族とシナ・チベット語族に分類される。

 この他には極東ロシアに残る橙色で塗られた古シベリア語地域と、緑の帯で塗られたロシア国内のスラブ系諸語の地域がある。



 極東のまことに小さな国である日本は、古くは倭と呼ばれていた。

 倭は、紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称で、日本も自国のことを倭と呼んでいた。

 ところで、この倭という意味であるが、漢字本来の意味は「倭」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形である。

漢字の解釈としては、「ゆだねしたがう」「柔順なさま」「つつしむさま」、また「うねって遠いさま」となる。

日本列島に住む人々が倭・倭人と呼称されるに至った理由には諸説があるようである。



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一条兼良は、「説文解字」に倭の語義が従順とあることから、「倭人の人心が従順だったからだ」とした。

江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説である。

これらの説を採るとすれば、倭は東夷西戎北狄南蛮の部類の国名となるが、倭の由来はやはり謎のようである。



その倭がいつから「日本」と名乗ったのかは、ほぼ確定しているようである。

そのきっかけは、高句麗・新羅・百済三国の間の朝鮮情勢の不安定化と、663年の白村江の戦いでの決定的な敗戦である。

倭・百済連合軍は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に完敗した。

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朝鮮半島では百済・高句麗が相次いで滅亡し、676年に新羅は朝鮮半島を統一した。

天皇を中心とする律令政治体制の確立を急ぎ、唐や新羅に対抗する国を作ることが急務になったのである。

国際情勢が激変する中で、「日本」という言葉を最初に「国号」として使い始めたのが第40代天武天皇(673年~686年まで在任)である。

外国から強力な独立力を保つために、国という概念を強く意識し始めた彼は、「中国から見たときに、日が昇る方角にあるのが倭であるため、日の本の国」という意味で「日本」という国名を考えたのである。

以前は大王だった呼称も、天武の頃から天皇に変わった。

国内的には689年の「飛鳥浄御原令」から、倭は日本という国号表記に変わり、対外的には702年に遣唐使の粟田真人が、則天武后(唐の高宗の皇后で690年自ら即位して聖神皇帝と称し、国号を周と改めた。)に「日本」からの使者だと述べたのが最初とされている。

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