吉備王国へのみち その34 磯田道史氏、岡山城を語るⅡ

 磯田氏は更に城に近づいて、城の説明をしてくれる。
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 ここは天守閣東側の石垣で、ここは宇喜多秀家時代の野面積みが残っている場所である。
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 岡山城で最も古い石垣が残っている場所で、自然の丸っこい石を、表面を加工することなく、そのまま積んでいる。
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 やってはいけないことだが、この石垣は登ろうとすれば誰でも簡単に登ることができる。
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 この野面積みの城は、河口に時間が掛からないので、早く造り上げることができる石垣の積み方である。
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 ここで忘れてならないのは、この石を見てもらえば判ることだが、熱を受けて猛烈な炎で焼かれたような形跡が残っている。

 岡山城の天守閣であるが、残念なことに1945年の6月29日の「岡山大空襲」で焼けてしまったのである。
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 これは岡山城の月見櫓で、天守閣の西側にある建物である。

 さっきは空襲で岡山城が焼けたと説明したが、この月見櫓だけは奇跡的に残った。
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 磯田氏は小さい頃にこの月見櫓に憧れていて、月見櫓の絵ばっかり描いていたそうである。
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 そして月見櫓のこの石垣であるが、これは打ち込みはぎ石垣と言って、さっきの自然石とは違って登るのが難しいようである。

 角の方は算木積みという方法で石垣を積んでいる。

 話は変わって、大阪城でも江戸時代に建てられた現在の城の中にある秀吉時代に建てられた遺構を展示する計画を進めているが、岡山城は随分早くから新しい時代の中に埋もれたり残ったりしている遺構を展示している。
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 ここは天守閣の下であるが、ここに宇喜多秀家時代の石垣が残っていて、このように展示されている。
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 ここは門があった前なので、この下方辺りを小早川秀秋が通っていたのだと、磯田氏は楽しそうに説明してくれた。

 話はまだ続くのだが、この編で岡山城とお別れして、次に後楽園に向かうことにする。

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