奈良大和路散歩(2016年の旅) その34 葛城みちをゆく その2 「一言主神社」
葛木坐火雷神社の次に、古代葛城王朝の宮殿があったと推定されている高丘という台地に建つ「一言主神社」に向かった。
その途中のコンビニで、昼飯用のお茶などを買った。
手前の車が街道をゆく旅で初めてレンタカーとして使用したトヨタカローラアクシオ1500である。
ここに留めた頃には、もうすっかりこの車に慣れていた。
11時40分頃には一言主神社の大鳥居前に到着、ここの横にある駐車場に車を停めて大鳥居を潜って長い並木道の続いている参道を歩いて一言主神社のある高丘の山麓まで歩いて行く。
歩きながら葛城氏のことを考えた。
葛城王朝は神武天皇を初代とし、伝説上の第2代天皇である綏靖(すいずい)天皇の皇居は一言主神社のある高丘に置かれていた。
のちに葛城氏の後裔と称する蘇我蝦夷が自分のはるかな先祖の祖廟をつくるとして、同じ高丘にその地を選定した。
僕は今、葛城王国の真只中を歩いていることになる。
葛城王朝の頃は葛城山麓一帯に住んでいた葛城氏が大和の政治を司り、大和一帯は葛城氏の治世下にあった。
葛城山麓には鴨族が住んでおり、たぶん鴨族の中の王族が葛城氏で政治を担い、鴨族は政治的存在とはならずに祭祀を司っていた。
ここまで考えていたらどうやら高丘下に到着したようで、見上げると一言主神社の本殿などの建物があり、その奥は鬱蒼とした森となっている。
これから正面の石段を上がって、葛城の高丘にのぼる。
のぼりながら、再び葛城氏のことを考えている。
葛城山麓を拠点に大和一体を治めていた葛城王朝は、やがて崇神天皇によって滅ぼされて三輪王朝の支配下に下っていく。
葛城氏が再び活気づくのは、宋書倭国伝に記された倭の五王の宋への朝貢が行われたあの5世紀の河内王朝の時代である。
葛城氏はこの5世紀、大王家との継続的な婚姻関係を行い、政治の表舞台に再浮上した。
記紀によれば、葛城襲津彦の娘の磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生み、襲津彦の息子の葦田宿禰の娘の黒媛は履中天皇の妃となり、市辺押磐皇子などを生んだ。
押磐皇子の妃で、顕宗天皇・仁賢天皇の母である荑媛(はえひめ、荑は草冠+夷)は、蟻臣の娘とされる。
さらに襲津彦の孫の円大臣の娘の韓媛は雄略天皇の妃として、清寧天皇を儲けている。
このように、仁徳より仁賢に至る9天皇のうち、安康天皇を除いた8天皇が葛城氏の娘を后妃か母としていることになる。
まさに5世紀の大和国は、大王家と葛城氏の両党政権だったと言える。
葛城氏のことを考えている間に、伝説上の第2代天皇である綏靖(すいずい)天皇の皇居があったとされる高丘に建てられている一言主神社の拝殿に到着した。
葛城一言主神社パンフレット「いちごんさん」には、雄略天皇の時代に一言主大神が天皇と同じ姿で葛城山に現れ、天皇はこの一言主大神を深く崇敬され、大いに御神徳を得られたと書かれている。
実際のところは、古代葛城王朝の末裔である葛城氏を滅ぼしたのは巨大になった大和国家の雄略帝で、その祭祀を担当していた一言主神は雄略帝と大喧嘩となり、帝は土佐国へ一言主神と信奉者達をたたきだしたという。
再び一言主神が帝から許されて葛城山に戻って来たのは奈良時代のことだという。
葛城山麓の高丘から、はるか向こうに続く大和盆地を眺めた。
かって葛城王朝の皇居があり、王朝の祭祀を担当していた一言主神と信奉者の眺めた風景は、今もそう変わっていないように思えた。
境内の竹林の近くの涼しいところで「たなかの柿の葉ずし」で昼食とした。
「たなかの柿の葉ずし」の中身は鱒2個、鯖4個、穴子2個の計8個で1036円の味は、あたりの景色とお茶のため、一層絶品となった。
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