横浜散歩 その7 吉田橋

 案内板「ブラントンと横浜」の左隣に、「鉄の橋」という案内板が掲げられていたが、これがどうやら吉田橋のようである。

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 この看板には、こう書かれていた。

 明治2年(1869年)、英国人土木技師R.H.ブラントンにより架け替えられた吉田橋は、橋長24m、  幅員6mの日本最初のトラス鉄橋であり、「鉄の橋」として市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど大変人気を集めました。

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 現在の高欄は「鉄の橋」をイメージして復元したものです。

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 この復元された高欄が両側にある「鉄の橋」をこれから渡ってみるが、道路(橋)の両端に鉄の高欄が見えている。

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 道路を歩いて行き、近くにトラス鉄橋を復元した高欄を見ているが、確かに文明開化のシンボルを感じさせる存在である。

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 道路の右を歩いて、トラス鉄橋の端まで行って後ろを振り返ると、ちょうど電車が高架橋の上を通り過ぎるところだった。

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 道路の反対側には、吉田橋関門跡碑が建っている。

 開国・開港当初は、来日した外国人を狙った殺傷事件が発生するような「攘夷」を是とする世相があったため、外国人居留民の往来がある地区では取り締まり強化が必須となったが、開港地・横浜においてもそのご多分に漏れず、最寄りの宿場町だった神奈川宿、保土ヶ谷宿などでの警戒が強化された他、安政6年(1859年)、吉田橋の傍にも関門が設置された。

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 幕末(横浜開港後)に整備された、旧東海道と開港場をつなぐ道である「しんみち」こと横浜道はこの付近まで伸びていたとされているが(現在の横浜駅西口方面と繋がれていた)、以降、この吉田橋関門を基準として、ここより港側が関内地区、その外が関外地区とされる。

 JR根岸線・関内駅の駅名をはじめ、現在も地域一帯を指す通称名として残された”関内“とは対照的に、その役割を終えたと判断された吉田橋関門は、明治4年(1872年)に廃止された。

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