旅人かへらずから〜西脇順三郎

旅人かへらず

  

青春の時代と呼べる頃は、西脇順三郎の詩が全く理解できなかった。

僕には、彼の詩を理解できる日は来ないだろうと確信していた。



還暦を過ぎた今、彼の詩を普通に感じている自分に少し驚いている。

まあ、月並みに言えば、「年寄り」になったということなのかと思っている。

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 この詩は全168節から出来ている、超長編詩、最初と最後と気に入った節を掲載します。









第一節(冒頭)




旅人は待てよ

このかすかな泉に

舌を濡らす前に

考へよ人生の旅人

汝もまた岩間からしみ出た

水霊にすぎない

この考へる水も永劫には流れない

永劫の或時にひからびる

ああかけすが鳴いてやかましい

時々この水の中から

花をかざした幻影の人が出る

永遠の生命を求めるは夢

流れ去る生命のせせらぎに

思ひを捨て遂に

永劫の断崖より落ちて

消え失せんと望むはうつつ

さう言ふはこの幻影の河童

村や町へ水から出て遊びに来る

浮雲の影に水草ののびる頃







第四三節(こんなのが今は丁度良い)



或る秋の午後

小平村の英学塾の廊下で

故郷にいとはしたなき女

「先生何か津田文学

に書いて下さいな」といつた

その後その女にあつた時

「先生あんなつまらないものを

下さつて ひどいわ」といはれて

がつかりした

その当時からつまらないものに

興味があつたのでやむを得なかった

むさし野に秋が来ると

雑木林は恋人の幽霊の音がする

櫟 / くぬぎ / がふしくれだつた枝をまげて

淋しい

古さびた黄金に色づき

あの大きなギザギザのある

長い葉がかさかさ音を出す







第七四節(こんなのが今は丁度良い)



秋の日も昔のこと

むさし野の或る村の街道を歩いてゐた

夕立が来て或る農家の戸口に

雨の宿りをした時に

家の生垣に

かのこといふ菓子に似た赤い実

がなつてゐた

「我れ発見せり」と思つた

それは先祖の本によく出てくる

真葛 / さねかづら / とか美男葛といふもの

その家の女にたのんで折り取つた

女は笑ふ「そんなつまらないもの」

をと だが

心は遠くまた近い







第一六八節(最後です)



永劫の根に触れ

心の鶉の鳴く

野ばらの乱れ咲く野末

砧の音する村

樵路の横ぎる里

白壁のくづるる町を過ぎ

路傍の寺に立寄り

曼陀羅の織物を拝み

枯れ枝の山のくづれを越え

水茎の長く映る渡しをわたり

草の実のさがる藪を通り

幻影の人は去る

永劫の旅人は帰らず

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