石狩川への旅 その8 「小樽市文学館」にて

 中央通りから手宮線跡を歩き、日銀通入った。
 ここに小樽市立文学館・美術館がある。

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 外壁も内部も薄汚れていて、「誰もが犬のように頭を下げて道を歩いていた。」綾瀬慎介が表現したような昔日の小樽っぽい建物の中に居ると、現実が遠くになるような感覚になる。
 文学館は伊藤整小林多喜二の展示物が目を引き、小樽はこの二人の偉大な文学者の街だということを改めて確認した。
 小林多喜二関連の資料は一部屋に纏められていたが、その多くの展示品の中でも、獄中から出した手紙の一文に惹かれ、時間をかけて数回読み返した。


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  冬が近くなぼくはそのなつかしい国のことを考えて深い感動に捉えられている。そこには運河と倉庫と税関と桟橋がある そこでは、人は重っ苦しい空の下を どれも背をまげて歩いている ぼくは何処を歩いていようが どの人をも知っている 赤い断層を処々に見せている階段のように山にせり上がっている街を ぼくはどんなに愛しているかわからない」 
 この短い文章の中に、多喜二の小樽に寄せる思いの深さが凝縮している。

 写眞の左下に、「プロ作家小林多喜二氏 築地署に捕はれて急死」の見出しが三十歳にも満たない彼の人生の最後を語っている。
 多喜二は小樽高商(現小樽商大)を卒業すると、1924年から6年間拓銀小樽支店に勤務した。(大正が終わり、昭和が始まった頃のこと。
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 拓銀は北海道開拓を支えた半官半民の特殊銀行で、1927年当時には北海道の半分の農地に抵当権を設定しており、1万町歩もの農地を所有する日本一の不在地主だった。  
 現在はビィブラントオタルホテルとして使われており、北のウォール街の中心施設として観光客の絶え間が無い観光スポットとなっている。

 多喜二の銀行員としての仕事ぶりは正確で手際が良かっそうで、彼は初任給として貰った70円の中から中古バイオリンを買い、弟の三吾に贈った。三吾はのちにバイオリンで身を立てる人間となる。
 自らは一流大学を出たエリートで銀行員という固い仕事をしていた多喜二の内部で何があったのかは分らないが、当時の富裕な若者達の間に世界規模で流行っていた共産主義の教義が、正義感の溢れたインテリ文学青年の心を捉えたのだろう。
 彼の視点は、社会の底辺で疲弊し消耗しうごめいている貧しい人たちに向けられていく。
 そんな心象風景の中で、入舟町の酒場で働く田口タキを知り恋に落ちる。エリート社員とホステスの恋のようなものである
  
 みじめな境遇から必至に這い出そうとするタキに恋情を抱き、彼女の置かれた境遇を劇的に変化させることで、彼の貧しい人たちへの姿勢は本物となる。
  
 彼は小樽に住む貧しい人ただけでなく、富んだ人たち同じように愛しいたのだと僕は感じている。
 
 
 小樽を思う愛の深さは、「ぼくは何処を歩いていようが どの人をも知っている 赤い断層を処々に見せている階段のように山にせり上がっている街を ぼくはどんなに愛しているかわからない 」というセンテンスを、このように換えるとより理解が早い。

 「赤い断層を処々に見せている階段のように山にせり上がっている街を、何処を歩いていようが どの人をも知っているこの街を ぼくはどんなにしているかわからない 

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