奈良大和路散歩(2016年の旅) その35 葛城みちをゆく その3 高天彦神社から高鴨神社へ
高鴨神社へ行く前に、高天彦神社(たかまひこじんじゃ)に立ち寄った。
ここはもう神話の世界で、この神社のあるすそ野に高天原がある。
高天原は天津神(高天原にいる神々、または高天原から天降った神々の総称)が住んでいるとされた場所のことである。
高天原の所在については諸説あり、著名なところでは宮崎県高原町、宮崎県高千穂町、新井白石による説で有名な茨城県多賀郡、そして現在僕のいる奈良県御所市高天(金剛山の麓に広がる台地上に位置し、古くは葛城といわれた地域で、そこにそびえ立つ金剛山は、古くは高天原山といわれていた。)などがある。
鳥越憲三郎氏の著「神々と天皇の間」の最も有力な事例のようでもある御所市高天の高天原を通り抜け、高天彦神社の駐車場に到着した。
大杉の背後に見える山が白雲岳で、高天彦神社はこの山を神体山に祀った神社である。
大杉の参道を抜け、高天彦神社鳥居前まで来た。
高天彦神社は元々は当地の地主神の「高天彦」を祀ったものと推測され、社名・神名の「高天(たかま)」は一帯の地名でもある。
高天彦神社の社殿前まで来た。
社殿は1877年の建築で、三間社の神明造りである。
社格は高く、「延喜式」神名帳では大和国葛上郡に「高天彦神社名神大月次相嘗新嘗」として、名神大社に列するとともに、朝廷の月次祭・相嘗祭・新嘗祭に際しては幣帛に預かった旨が記載されている。
ところで名神大社とは、日本の律令制下において名神祭の対象となる神々を祀った神社のことである。
名神祭は国家的事変が起こりまたはその発生が予想される際に、その解決を祈願するための臨時の国家祭祀である。
どんな名神祭がここで行われたか知らないが、高天原伝承の地に相応しいものだったと推測される。
高天原を出て20分程車を走らせ、次に全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社と称する高鴨神社へ向かった。
高天彦神社と同じく名神大社に列せられている高鴨神社前へ到着した。
この地は鴨氏一族発祥の地であり、神社は古代より祭祀を行う日本最古の神社の一つで、鴨氏の氏神として祀られたものである。
カモは神の語源の一つと考えられており、カモすという言葉から派生しており、気が放出している様を表している。
その神々への階段を歩いていく。
神々を祭祀する鴨氏(賀茂氏、鴨氏/加毛氏)は、速須佐之男命の11世の孫の大鴨積命を祖とする出雲国の古代の氏族とされ、八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命を始祖とする天神系氏族である。
社殿に参拝しながら、鴨氏のことなどを考えた。
県内には延喜式内社が216社あり、そのうち名神大社は12社あり、葛城地方にそのうちの5社が偏在して存在している。
5社の名は、高鴨神社、高天彦神社、一言主神社、鴨都波神社、葛木坐火雷神社である。
この葛城地方は朝廷や国家にとって重要な場所だったのである。
葛城王朝の時代は王朝の内部の一族として祭祀を直接司り、その後も国の大事のある度に朝廷や国の重要な祭祀を司ってきた神に使える一族のことを考えた。
司馬遼太郎が葛城みちで「古色を帯びた森の池」と書いていた森の池を社殿の境内から眺めた。
「葛城・金剛の山みずをここに溜め、この水によって鴨族の段丘田園が潤い、その人口は養われ、鴨族はその水のほとりに族神を祭って水の守りにしたのだろう。」と司馬が書いた森の池は、その当時の面影を今も伝えているように思われた。
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