九州散歩Ⅰ その35 「フランシスコ・サビエル記念碑」と「三浦按針の墓」

 フランシスコ・サビエルは、1550年(天分19)鹿児島を経て平戸を訪れ、短期間ではあるが都合三度平戸を尋ねて、領主隆信の許しを得て、平戸に初めてのキリスト教の布教伝導にあたった。

 その事跡を偲んで、1949年(昭和24)フランシスコ・サビエル来朝400年を記念して崎方公園の高台に、白の大理石造りの記念碑が建てられたのである。
  レンタサイクルで5分ほど走ると、国際観光ホテル旗松亭裏の崎方公園内東側の赤字1の場所に、「フランシスコ・サビエル記念碑」はあった。
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 十字架をかたどる碑の中央に刻まれたサビエルの胸像の視線は、遠くエルサレムを望んでいるという。

 サビエルについては、後ほど聖フランシスコ・ザビエル記念教会 (カトリック平戸教会)に行った時に詳しく考察してみたいと考えているので、ここではこのくらいにしておく。

 次に、ここから少し離れた崎方公園内の赤字2の場所にある「三浦按針の墓」に行った。
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 三浦按針(ウィリアム・アダムス)は、始めて日本に来たイギリス人である。

  1600年(慶長5)オランダ船リーフデ号(航海長)で豊後(大分県)に漂着し、平戸には1613年(慶長18)にやって来た。

  その間徳川家康は、彼を外交顧問として、今の神奈川県横須賀市に住まわせ、250石を与え召し抱えていた。
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 慶長年間、オランダ、イギリスが通商を許され、平戸に商館を設置するようになったのは、按針の力によるところ大であったといわれている。

 後に、平戸イギリス商館長コックスのもとで活躍し、1620年(元和6)平戸で病死した。

 墓地は定かではないが、1954年(昭和29)三浦按針の墓を建立し、夫婦塚は、1964年(昭和39)アダムス誕生400年にあたりイギリスの妻の墓地より夫人の霊魂の象徴として小石をとりよせてアダムスの墓に合葬し夫婦塚としたものである。



 ここで、少し諸外国と平戸の交易の歴史を整理してみる。

 1550年に初めて南蛮船(ポルトガル船)が来航し、領主の松浦氏から商館の設置を認められ、ポルトガルとの交易が始まった。

 しかし、松浦氏はキリスト教の布教は認めなかったので、ポルトガル人は1570年に長崎を領主大村氏から許可を得て寄港地とした。

 スペインはポルトガルより遅れて、1584年に平戸に商館を設けた。

 その後平戸はいわゆる南蛮貿易の中心地として栄え、とくにポルトガル船はマカオとの間で、スペインはマニラとの間で活発な交易を行った。

 1609年にはネーデルラント連邦共和国(オランダ)の東インド会社の商船が入港して商館を設置した。

 この年、オランダはスペインからのオランダ独立戦争で休戦協定を締結、事実上の独立を達成し、1619年からはジャワ島のバタヴィアの出先機関として日本との交易にあたった。

 1613年にはイギリスの商船が入港して、平戸に商館を設けた。

 こうして平戸はヨーロッパ各国の対日貿易の拠点として、多くの商船が出入りし繁栄した。

 江戸幕府は外国貿易を統制する必要から、1616年には中国船を除く外国船の入港を平戸と長崎に限定する措置をとった。

 イギリスは1623年に日本との貿易から撤退して平戸の商館を閉鎖し、江戸幕府の鎖国政策も徐々に進行して、1624年にはスペイン船の来航が禁止された。

 1634年にポルトガル商館は長崎に新たに築造された出島に移され、さらに1639年には来航が禁じられ、1641年に平戸のオランダ商館が長崎の出島に移されたため、平戸の貿易港としての繁栄は終わった。

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