探険家の歴史 第2部 ボルガ川の旅 その3 「カザン」にて

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 いつものように最後に問題があります、答えてね・・




 カザンはタタルスタン共和国の首都。人口の半分はタタール人であり、彼等はムスリム(イスラム教徒)でもある。


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  カザン中心部の白いクレムリン  ↑


 ここはアジア人種の飛び地であるせいか、ロシアでも珍しいイスラム的な街並みが特徴、 また人々も欧米と同じアルファベット文字を使う習慣があり、街角にもアルファベット文字の表記が目立つ。


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  カザン中心街、バウマン通り ↑


 ロシアにありながらも独特の雰囲気の漂うカザンの街、そして共和国東部一帯には油田が広がる。


 ジンギスカン率いるモンゴル帝国は、かつてアジアとヨーロッパに、広大な領土を持ち君臨した。


 ジンギスカンの孫のバトウの代には、ロシアを征服、ポーランド・ドイツ軍を撃破、西ヨーロッパにも侵攻を始めた。(モンゴル族の一部族の韃靼(だったん)族の先祖とされる中央アジアのアルタイ山脈を根拠地にした遊牧民族突厥(とっけつ)も、6世紀から7世紀にかけて、東は中国の北方から西はカスピ海にまで勢力を伸ばしたことがある。)


 皇帝オゴタイ・ハン(ジンギスカンの子)の死去により、バトウは西ヨーロッパから撤退、ボルガ河口のサライを首都としてキプチャク・ハン国を築いた。


 その後キプチャク・ハン国は、カザン汗国やアストラハン汗国に分かれ、カザン汗国は首都をカザンに置き、アストラハン汗国は首都をアストラハンに置いた。


 1552年、ロシア(モスクワ大公国)のイワン雷帝に併合されるまで、カザンはジンギスカンの末裔(タタール人)の支配する土地であった。


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 カザンの名前の由来だが、ここに最初に来た汗(王)が河畔で食事中、美少女を見かけたが、その少女があまりに美貌だったので、思わず鍋(モンゴル語で鍋のことをカザンという)を落とした。


 それで、汗はカザンとこの地を名づけたという。その美少女はスユンベキという名で、後に汗の妃となり、カザンの空に聳えるスユンベキの塔を、クレムリンの中に造らせたのだった。


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  カザンカ川から見たスユンベキの塔(一番高い7重の塔) ↑



 カザンから、ボルガ河を200km下ったところに、ボルガールという街がある。



 ここに、7世紀から13世紀まで存在したボルガ・ブルガル国の遺跡がある。


 ボルガ・ブルガルという国は、実はバルカン半島の付け根に位置するヨーグルトで有名なブルガリアと兄弟の国だった。


 7世紀の後半、フン族の末裔でチュルク語系のブルガル族は、アゾフ海からボルガ川にかけて強大な国を作っていたが、東進してきたトルコ系ハザール人に追われ、ブルガル族の一派は南下して現在のブルガリアの基礎を築き、もう一派は北上してボルガとカマの合流点南にボルガール汗国を築いた。(ボルガの名は、ボルガール汗国から由来している。)


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   ボルガール汗国の当時の交易品(クロテン)、ロシアは毛皮を求めて、 シベリアへ向った歴史がある。 ↑



 タタルスタン共和国の対岸のチュバシ共和国に住む住民の80%は、このボルガール汗国の末裔の人々であるとされている。



 ロシアには160もの少数民族が生活しているが、中国のチベットに似た民族問題を引き起こしている地域も沢山ある。


 ここカザンも、ムスリム(イスラム教徒)のタタール人が人口の半分を占めている難しい地域で、1990年代には、チェチェン化の危険もあったところである。


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   民族の垣根を超えてカザンカの岸辺でみんなで水浴 ↑


 「母なるボルガ」の名称のもととなった史跡を持つタタルスタンの首都カザン、トルコ系ハザール人やモンゴル系タタール(韃靼)人、そしてスラブ系ロシア人に支配された歴史を持ち、地域として独立しないままにロシア共和国の成員として今も存在しているのである。






 カザンにはレーニンやトルストイ、ゴーリキー、それに非ユークリット幾何学の創始者である数学者のニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーなどのゆかりの大学、国立カザン大学がある。


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  カザン大学 ↑


 建物の正面には17歳の若きウラジミール・イリイッチ・ウリヤノフ(レーニンの本名)の銅像がある。


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 この大学に学んだ3名の偉人を紹介する。 


 まず一人目は革命家、ウラジミール・イリイッチ・ウリヤノフ(レーニン)


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  レーニン  ↑


 レーニンは、ボルガ河畔のシルビンスク(今のウリヤノフスク)の生まれで、教師で地方の名士でもあった父と医師の娘であった母との間に、3番目の子として生まれた。


 1887年秋にカザン大学に入学したレーニンだが、教室を占拠封鎖するという事件を起こし、4ヶ月ほどで放校処分になっている。


 彼が学んだ教室はきちんと保存されていて、彼がいつも座っていた窓際の左端の列の前から3番目の席には、花が置かれており、今は誰でも座ることが出来る。


 僕は、17歳のウラジミール・イリイッチ・ウリヤノフの座った席に座り、最愛の兄アレクサンドルが皇帝の暗殺事件に巻き込まれ絞首刑になった後、既にロシア革命を夢想しながら窓の外を眺めていただろう、その頃の彼の姿を想像した。(彼は54歳で死んだ、革命家としては長生きだよね。)


 二人目はロシアが誇る文豪、レーヴ・ニコラエヴィチ・トルストイ


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   トルストイ  ↑


 トルストイ、レーヴ・ニコラエヴィチはヤースナヤ・ポリャーナの名門貴族の4男として生まれ、1844年に外交官になる志を立てカザン大学東洋語学科に入学した。しかし翌年進級試験に落ち、有名無実で悪名の高い法科に転入した。だが、この学科は2流の外人教師ばかりで、47年、彼は学位を取らないまま退学した。


 彼は後に、「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」など世界文学有数の長編小説を生み、あらゆる秩序を批判し、暴力を否定し、トルストイ主義と呼ばれるキリスト教的な人間愛と、道徳的自己完成を説いた。(彼は82歳まで生の意味を問い続けながら真摯に生きた。)


 34歳の頃、モスクワの宮廷医の2女だったソーフィヤ・アンドレーエヴナ・ベルスという16も年下の女性と結婚、ソーフィヤは美貌、聡明で意志の強い女性であり、生涯にトルストイとの間に13人の子をなした。(13番目の子供は60歳のときの子ども、精力的だよね。) 


 3人目は数学者、ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキー


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   ロバチェフスキー  ↑


 ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーはロシアの数学者である。

 ニジュニー・ノヴゴロト(新しいノヴゴロトの意味)の生まれで両親はユダヤ系。

 カザン大学に学び、21歳で同大学教授となり、1827年から1846年には学長も兼ねていた。


 1829年,36歳のロバチェフスキーは紀元前3世紀から二千数百年以上絶対の真理として誰も疑わなかったユークリット幾何学の第5公準(平面状の直線外の1点を通ってその直線に平行な直線は1本だけ引ける。)に疑問を抱き、「平面状の直線外の1点を通ってその直線に平行な直線は無数に引ける」という公準もなりたつとして、「近代数学」の展開の扉を開けた。


 この流れの物理への応用は、アインシュタインの「一般相対性理論」をも生み出した。


 彼は非ユークリッド幾何学の1つである双曲幾何学を築いた。双曲幾何学はロバチェフスキー幾何学とも呼ばれている。(62歳で死んだが、彼が生涯を賭けて求めたのは、たった1行の真実だった・・・)




ここで、問題です。


女性の場合あなたが結婚するとしたら、次の誰と結婚したいですか。


男性の場合は友達を選ぶとしたら誰を選びますか。理由も書いてね。



1 レーニン


2 トルストイ 


3 ロバチェフシキー 

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