探険家の歴史 第2部 ボルガ川の旅 その4 「ウリヤノフスク」にて(最後に問題あり。)
ソビエト社会主義共和国連邦の産みの親 レーニンの像 ↑
20世紀の歴史に七十数年もの間強大な影響を与えたソビエト社会主義共和国連邦はロシア史上最大で最強の国家であった。
東はベーリング海、西はバルト海、北は北極海、南は黒海・カスピ海に臨み、その領域に住む15共和国の人民を共産主義という思想で束ね、ユーラシア大陸の北半分を、完全に掌握していた。
そのソビエト共産主義の産みの親が、ウラジミール・イリイッチ・ウリヤノフ、通称レーニンである。
シンビルスクはレーニンの生まれた街である。ソビエト時代、この町の名はレーニンの本名にちなんで、ウリヤノフスクと言われていた。以後レーニンに敬意を表し、この街を以前の名称「ウリヤノフスク」で呼ぶ。
ボルガ夕景(ウリヤノフスクにて) ↑
ウリヤノフスク(Ульяновск, Ulyanovsk)はボルガ川に臨み、人口は60万人ほどの街である。
レーニンの生地として知られ、レーニンは17歳までここで暮らした。またウリヤノフスクは1671年にステンカ・ラージンの乱で戦場となった。
この街にはロシア2月革命後臨時政府首相になったケレンスキーや、文学者として名高いイワン・ゴンチャロアが生まれている。
夜のウリヤノフスクの街風景 ↑
ウリヤノフスクはかっては、年間100万を超える人々がソ連全土から訪れた革命の聖地で、街中がレーニン一色で塗られていた。
レーニンの評価は後継者スターリンによって神格化され、ソビエト時代はキリストのように扱われ、ソビエトの諸都市にはレーニン像やレーニンの名称を付けた建物や通りが、どこの街にも建設された。(サンクトペテルブルグはソビエト時代はレニングラードと呼ばれた。)
ただ、ソビエト崩壊を経験し、ベルリンの壁崩壊も経験した21世紀に生きる人々にとっては、レーニンの正体がやはり見えて来るのである。
レーニンは、マルクス主義を学び、社会主義社会が資本主義社会の後に理想社会として現れることを信じ、それを実行した多くのマルクス主義者の1人だが、結局彼はテロリズム(恐怖政治)を武器に国民を服従させようという恐怖政治家でしかなかった。
レーニンは、「革命という至高の目的を実現するためならいかなる手段を使うことも正当化される」と信じた人物だった。
(レーニンは、1917年のボリシェヴィキ政権が誕生する少し前にヘルシンキに住んでいた。写真は、そのときの住居の様子 ↑ )
亡命先のフィンランドから戻り、ロシア革命10月(革命)によって神にも匹敵する無制限の絶対権力をふるう地位を手に入れた彼は、1917年12月20日チェーカー(秘密政治警察)創設から、1922年12 月16日の第2回発作による最高権力者活動の事実上の停止までの5年間に、数百万人もの自国人を粛清という名で殺戮した。
最高権力者であるレーニンが『人民の敵』『反革命分子』と判定した自国民にたいし、『邪魔者は殺せ!』という感情をさらけ出した『殺人指令』の例である。
『反抗的な富農たちのすべての穀物、私有財産を没収せよ。富農の首謀者を絞首刑にせよ。金持ちの中から人質をとり、これを軟禁せよ』
『コサック上層部全員を根絶やしにする闘争を唯一正しいものであると認めねばならない。裕福なコサックに対して大量テロルをおこない、彼らを一人残らず根絶やしにすること。穀物を没収し、余剰すべてを指定の場所へ運び、引き渡させること。完全武装解除をおこない、武器引渡期限以降に武装の所持が発覚した者は、すべて銃殺すること』
ポスター「君は義勇兵に登録したか?」 (このポスターによって、赤軍に参加、殺人集団の先兵となった若者の数は知れない。) ↑
レーニンの後継者であるスターリンも同様なことを行い、共産主義という名のテロリズム国家として誕生したソ連は、1991年の崩壊までその本質的な体質を変えることなく20世紀最強の国家の片割れとして存在した。
中国共産党の毛沢東も程度の差はあれ、レーニンやスターリンと同様なことをした。ロシアにはイワン四世という大変な暴君がいたが、見方によってはレーニンもイワン四世並みということも言える。
ロシアの皮肉屋の中にはこんなことを言う人がいる。「ロシア最大の悲劇は、レーニンが誕生したことだ。そしてもっと悲劇となったのは、彼が死んで神様になったことだ。」
レーニンの子ども時代、こんな可愛い子がレーニンになるとは・・・・・) ↑
そのレーニンによるロシア革命の標的となったロマノフ王朝、そのツァーリのロマノフ家は、ノブゴロド公国建設によるルーシの時代よりのロシア・ツァーリだったリューリク家の外戚であった。
ロマノフ朝はミハイル・フョードロヴィッチ・ロマノフが1613年にリューリク朝後の動乱期を制して初代ツァーリに即位し、18代ニコライ2世が廃位させられる1917年まで続いた。
ロマノフ家の経済力はハプスブルク家を超えているとも言われ、世界一の大富豪でもあった。
主な財源は征服地シベリアからの毛皮・木材の貿易、中央アジアの植民地化による市場確保であった。
ロマノフ朝(ロマノフちょう)は、ピュートル1世(ピュートル大帝)のとき西洋化・近代化を進めヨーロッパの列強に加わり、その後勢力を拡大してヨーロッパから沿海州までを支配し、ペトログラード(現在のサンクロペテルブルグ)に遷都した。
ペトログラードにあるピュートル1世(ピュートル大帝)の夏宮殿 ↑
その後宮廷革命でドイツ人のエカテリーナ2世が即位する。この過程でロマノフ家にはドイツ系の血が濃厚となった。
(女帝エカテリーナ二世の時代、ロマノフ王朝は爛熟期を向え、世界一の財力と権力と手に入れた。 ↑)
ニコライ二世はロマノフ朝第14代にしてロシア帝国最後の皇帝。
アレクサンドル3世とその皇后マリア・フョードロヴナ(デンマーク王クリスチャン9世の第二王女)の第一皇子として生まれる。皇后は、アレクサンドラ皇后。皇子女には、オリガ皇女・タチアナ皇女・マリア皇女・アナスタシア皇女・アレクセイ皇太子がいる。
末子のアレクセイ皇太子は不治の病である血友病患者であり、それを治すため宮廷に呼ばれたのが祈祷師「怪僧ラスプーチン」である。
この一家は、レーニンの命令を受けたチェーカー次席のヤコフ・ユロフスキー率いる処刑隊により、1918年7月17日、皇帝一家はウラル山脈中部の大都市であるエカテリンブルグにあったイパチェフ館の地下室で全員銃殺され、近くの村に埋められたというが、遺骨は行方不明となった。
そしていつからか、四女のアナスタシアだけは実は暗殺を逃れて西側へ脱出したという伝説が囁かれ始め、謎のアナスタシアが登場するのである。
アナスタシアと家族写真 ↑
謎のアナスタシア、アンナ・アンダーソン(Anna Anderson、1900年? - 1984年2月4日)は、ロシア皇女アナスタシアに生涯化け続けた東欧生まれのアメリカ人女性で、歴史上おそらく最も有名な王族偽装者の一人である。
謎のアナスタシア、アンナ・アンダーソン(アメリカ帰化前後)↑
1920年ドイツのベルリンで、自殺未遂者として精神病院に収容されたアンダーソンは、自分はロシアから処刑を逃れ脱走してきたアナスタシアであると周囲を説得。彼女には、赤の他人を説得する天性の才能があり、耳の形や足の異常形態などアナスタシアと酷似する身体的特徴もあったため多くの支持者を得た。
後日談
1978年にエカテリンブルクの歴史家のグループが皇帝一家のものらしい遺体 (約900個の骨片や歯) を発見したが、当時のソ連当局による没収や弾圧を恐れ、発表されたのはソ連が崩壊した後の1991年だった
皇帝一家の明らかな身体的特徴は不明だったが、法医学者が散乱した骨片から年齢、性別、身長を推定し、写真などから推定した彼らの身長と比較してマリアとアレクセイを除く皇帝一家9人(従者4人含む)の遺体である可能性を示唆した。
皇帝一家の骨 ↑
1994~1996年に英国法科学局のギル博士らが皇帝一家のものであると疑われる遺骨からDNAを抽出し分析し、アナスタシアと主張していたアンナ・アンダーソンについても1979年の手術時に摘出された小腸の一部が組織標本として保存されていたので、そこからDNAを抽出し分析した。
検査の結果、この遺骨がマリアとアレクセイを除く皇帝一家9人(従者4人含む)ものであることを識別し、アンナ・アンダーソンが皇帝一家とはまったく縁がないことも識別した。
(アンナ・アンダーソンは実際はポーランドの貧農の娘だった。でも、自分では死ぬまでアナスタシアだと心から信じていたという。名優と言っていいのではないかな。)
ここで、問題です。
ロマノフ王朝で1人好きな人を上げるとしたら次の3人から誰を選びますか? 理由も書いてね。
1 ピヨートル大帝
2 エカテリーナ二世
3 アナスタシア
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