九州散歩Ⅰ その37 サビエルについて
ここで、サビエルについて考察する。
ポルトガルやスペインは日本に初めてやって来た西洋人で、日本人は彼らを「南蛮」と呼んでいた。
サビエルはスペインのナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭(宣教師)で、イエズス会の創設メンバーの1人であり、彼はバスク人である。
フランスとスペインの両国にまたがるバスク国(スペインに認められている自治州で独立国家ではない。)はピレネー山中にあり、大人気の「フランス各地からピレネー山脈を経由しスペイン北部を通り、キリスト教の聖地であるスペイン、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラまでいく巡礼の路」もこのバスク国を通る。
コロナ禍の中で、旅行にもいけないので、しばらく暇つぶしに「司馬遼太郎の街道をゆく 南蛮のみち」を読んでいた。
大航海時代の16世紀半ば、来日したポルトガル人は日本に鉄砲を伝え、イエズス会のフランシスコ・ザヴィエル(スペイン人)はキリスト教を伝えた。
室町末から江戸時代にかけては、シャム、ルソン、ジャワほか南洋諸島の地を南蛮といい、ポルトガル人やスペイン人など、南方を経由して来日した西洋人を南蛮人と呼び、日本人は初めてヨーロッパ人と接した。
フランス・スペイン・ポルトガル3国にわたる司馬遼太郎の旅は、「南蛮」とはなにかということをこの旅で感じたいという<ご単純な動機で始まったようであるが、日本に初めて南蛮文化をもたらしたキリスト教宣教師の一人フランシスコ・ザヴィエル(地球が丸いという考え方を初めて日本人に教えた。)は、前述のようにスペイン・ナバラ地方出身のバスク人であり、青年時代にパリで学んでいた。
司馬さんはまず、パリの学生街カルチェ・ラタンを訪ね、ザヴィエルの青春の痕跡を追い、それからフランスとスペインの国境沿いに広がる、ピレネー山麓のザヴィエルが生まれ育ったバスク地方へと向かっている。
ザヴィエルの生家のハビエル城はフランスとの国境に近い北スペインのナバラ王国のハビエルに位置し、バスク語で「新しい家」を意味するエチェベリ(家〈etxe〉+ 新しい〈berria〉)のイベロ・ロマンス風訛りである。
フランシスコの姓はこの町に由来するが、これはChavier やXabierre などとも綴られることもあり、Xavier は当時のカスティーリャ語の綴りであり、発音は「シャビエル」であったと推定される。
現在はおもに「ザビエル」が用いられるほか、ザビエルにゆかりのある山口県では「サビエル」と呼ばれている(山口サビエル記念聖堂、サビエル高等学校など)。
ナバラ王国は小国ながらも独立を保ってきたが、フランスとスペイン(カスティーリャ=アラゴン)の紛争地になり、1515年についにスペインに併合され、父・フアンはこの激動の中で逝去し、その後ザビエルの一族はバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることになる。
1525年、19歳で名門パリ大学に留学し、聖バルバラ学院(フランス語版)に入り、自由学芸を修め、哲学を学んでいるときにフランス出身の若きピエール・ファーヴルと同室になり、のちにザビエルと同様にバスクから来た37歳の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)も加わる。
イニゴはパンプローナの戦いで片足の自由を失い傷痍軍人として故郷のロヨラ城で療養の後、スペインのアルカラ大学を経てパリ大学モンテーギュ学院で学んでいた。
この時期ザビエルは哲学コースの最後の課程に入っていたが、ロヨラから強い影響を受け、聖職者を志すことになる。
そしてロヨラの感化を受けた青年たちが集まり、1534年8月15日、ロヨラ、ザビエル、ファーヴルとシモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの7人が、モンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるという誓いを立てた。
これが「モンマルトルの誓い」であり、この時にイエズス会が創立したのである。
世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。
彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)とともに1541年4月7日にリスボンを出発した(ちなみにこの日は彼の35歳の誕生日である)。
1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本を目指した。
ヤジロウの案内でまずは薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年(天文18年)8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。
この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。
その後の日本でのザビエルの活躍は、ここでは省略し、最後に彼の日本人の印象について紹介する。
「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」と高評価を与えている。
ただ、ザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた衆道(同性愛又は男色)が日本において公然と行われていたことであった。
ポルトガルやスペインは日本に初めてやって来た西洋人で、日本人は彼らを「南蛮」と呼んでいた。
サビエルはスペインのナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭(宣教師)で、イエズス会の創設メンバーの1人であり、彼はバスク人である。
フランスとスペインの両国にまたがるバスク国(スペインに認められている自治州で独立国家ではない。)はピレネー山中にあり、大人気の「フランス各地からピレネー山脈を経由しスペイン北部を通り、キリスト教の聖地であるスペイン、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラまでいく巡礼の路」もこのバスク国を通る。
コロナ禍の中で、旅行にもいけないので、しばらく暇つぶしに「司馬遼太郎の街道をゆく 南蛮のみち」を読んでいた。
大航海時代の16世紀半ば、来日したポルトガル人は日本に鉄砲を伝え、イエズス会のフランシスコ・ザヴィエル(スペイン人)はキリスト教を伝えた。
室町末から江戸時代にかけては、シャム、ルソン、ジャワほか南洋諸島の地を南蛮といい、ポルトガル人やスペイン人など、南方を経由して来日した西洋人を南蛮人と呼び、日本人は初めてヨーロッパ人と接した。
フランス・スペイン・ポルトガル3国にわたる司馬遼太郎の旅は、「南蛮」とはなにかということをこの旅で感じたいという<ご単純な動機で始まったようであるが、日本に初めて南蛮文化をもたらしたキリスト教宣教師の一人フランシスコ・ザヴィエル(地球が丸いという考え方を初めて日本人に教えた。)は、前述のようにスペイン・ナバラ地方出身のバスク人であり、青年時代にパリで学んでいた。
司馬さんはまず、パリの学生街カルチェ・ラタンを訪ね、ザヴィエルの青春の痕跡を追い、それからフランスとスペインの国境沿いに広がる、ピレネー山麓のザヴィエルが生まれ育ったバスク地方へと向かっている。
ザヴィエルの生家のハビエル城はフランスとの国境に近い北スペインのナバラ王国のハビエルに位置し、バスク語で「新しい家」を意味するエチェベリ(家〈etxe〉+ 新しい〈berria〉)のイベロ・ロマンス風訛りである。
フランシスコの姓はこの町に由来するが、これはChavier やXabierre などとも綴られることもあり、Xavier は当時のカスティーリャ語の綴りであり、発音は「シャビエル」であったと推定される。
現在はおもに「ザビエル」が用いられるほか、ザビエルにゆかりのある山口県では「サビエル」と呼ばれている(山口サビエル記念聖堂、サビエル高等学校など)。
ナバラ王国は小国ながらも独立を保ってきたが、フランスとスペイン(カスティーリャ=アラゴン)の紛争地になり、1515年についにスペインに併合され、父・フアンはこの激動の中で逝去し、その後ザビエルの一族はバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることになる。
1525年、19歳で名門パリ大学に留学し、聖バルバラ学院(フランス語版)に入り、自由学芸を修め、哲学を学んでいるときにフランス出身の若きピエール・ファーヴルと同室になり、のちにザビエルと同様にバスクから来た37歳の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)も加わる。
イニゴはパンプローナの戦いで片足の自由を失い傷痍軍人として故郷のロヨラ城で療養の後、スペインのアルカラ大学を経てパリ大学モンテーギュ学院で学んでいた。
この時期ザビエルは哲学コースの最後の課程に入っていたが、ロヨラから強い影響を受け、聖職者を志すことになる。
そしてロヨラの感化を受けた青年たちが集まり、1534年8月15日、ロヨラ、ザビエル、ファーヴルとシモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの7人が、モンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるという誓いを立てた。
これが「モンマルトルの誓い」であり、この時にイエズス会が創立したのである。
世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。
彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)とともに1541年4月7日にリスボンを出発した(ちなみにこの日は彼の35歳の誕生日である)。
1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本を目指した。
ヤジロウの案内でまずは薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年(天文18年)8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。
この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。
その後の日本でのザビエルの活躍は、ここでは省略し、最後に彼の日本人の印象について紹介する。
「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」と高評価を与えている。
ただ、ザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた衆道(同性愛又は男色)が日本において公然と行われていたことであった。
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