横浜散歩 その10 神奈川県立歴史博物館
これから神奈川県立歴史博物館に入っていくが、この博物館は馬車みちの下図の部分に建っている。
神奈川県立歴史博物館は、自然科学系・人文科学系の総合博物館であった県立博物館(1967年(昭和42年)3月開館)の人文系部門を母体に、1995年(平成7年)3月に開館した。
それ以来、「かながわの文化と歴史」を総合的に扱う唯一の博物館として、現在に至るまで様々な博物館活動を展開してきた。
当館の建物は、旧横浜正金銀行の本店として1904年(明治37年)に建てられたネオ・バロック様式の旧館部分と、1967年(昭和42年)の神奈川県立博物館の開館にあたり増築された新館部分とからなっている。
旧館部分の外観は建築当初の姿をそのまま残し、1969年(昭和44年)に国の重要文化財の指定を受けている。
さらに、1995年(平成7年)には、近代における我が国の産業経済の発展を支えた重要な遺跡として、国の史跡指定を受けた。
なお、自然科学系部門は、小田原の地に移転し「神奈川県立生命の星・地球博物館」として開館している。
建物の中は3階建てとなっていて、1階は催し物会場なので、常設展となっている2階と3階を覗いてみることにした。
2階と3階は原始/古代・中世・近世・近代・現代/民俗の5つのテーマにより構成され、3階展示室から時代順に見ることができる。
3階の【テーマ1】原始・古代「さがみの古代に生きた人びと」と【テーマ2】中世「都市鎌倉と中世びと」はさらっと大雑把に見て2階に降りた。
2階は【テーマ3】近世「近世の街道と庶民文化」、【テーマ4】近代「横浜開港と近代化」、【テーマ5】現代「現代の神奈川と伝統文化」となっているが、【テーマ4】近代「横浜開港と近代化」のみをしっかりと見て回った。
ここでは、日本の一大転換点となった開港前後における神奈川の近代化の諸相を紹介する。
市民革命をへて18世紀後半から急激な工業化を進めた欧米諸国は、18世紀末になるとアジアへの進出を強めた。
1853(嘉永6)年、前年にその来航が予告されていた米国東インド艦隊司令長官ペリーが、最新鋭の蒸気軍艦2艘を含む艦隊を率いて来航すると、翌年幕府は通商を拒否しつつ条約を締結した。
そして1858(安政5)年米・蘭・露・英・仏国と通商条約を締結し、神奈川(横浜)をはじめとする5港が世界へ向けて開かれることになりました。
開港後の横浜は、西洋文化をいち早く取り入れる場であるとともに、日本文化を海外へ発信する場でもあった。
ここの展示内容は、「蒸気船が導いた新たな時代」、「世界へ開かれたみなとYOKOHAMA」、「文明開化の音」、「近代化と神奈川」、「横浜正金銀行」、「横浜浮世絵」、「かながわの近代絵画」、「輸出工芸と横浜のやきもの」となっていた。
「世界へ開かれたみなとYOKOHAMA」では、下の内容を紹介していた。
安政5ヵ国条約の規定により、のちにYOKOHAMAとして知られるようになる神奈川は1859年7月1日(安政6年6月2日)に開港します。人家もまばらな砂州であった横浜は埋め立てられ、外国人が居住することが許された外国人居留地、日本人商人が店を構える日本人町、そしてその中間に官庁街がつくられ、商取引を行うことができる区域である開港場として整備されます。人、モノ、情報の交流はここ横浜を通して行われるようになったのです。
その他の展示についてはここでは省略するが、午後1時頃になっていたので、この博物館1階の回廊にある「喫茶ともしび」で、手羽元カレーを食べた。
神奈川県立歴史博物館は、自然科学系・人文科学系の総合博物館であった県立博物館(1967年(昭和42年)3月開館)の人文系部門を母体に、1995年(平成7年)3月に開館した。
それ以来、「かながわの文化と歴史」を総合的に扱う唯一の博物館として、現在に至るまで様々な博物館活動を展開してきた。
当館の建物は、旧横浜正金銀行の本店として1904年(明治37年)に建てられたネオ・バロック様式の旧館部分と、1967年(昭和42年)の神奈川県立博物館の開館にあたり増築された新館部分とからなっている。
旧館部分の外観は建築当初の姿をそのまま残し、1969年(昭和44年)に国の重要文化財の指定を受けている。
さらに、1995年(平成7年)には、近代における我が国の産業経済の発展を支えた重要な遺跡として、国の史跡指定を受けた。
なお、自然科学系部門は、小田原の地に移転し「神奈川県立生命の星・地球博物館」として開館している。
建物の中は3階建てとなっていて、1階は催し物会場なので、常設展となっている2階と3階を覗いてみることにした。
2階と3階は原始/古代・中世・近世・近代・現代/民俗の5つのテーマにより構成され、3階展示室から時代順に見ることができる。
3階の【テーマ1】原始・古代「さがみの古代に生きた人びと」と【テーマ2】中世「都市鎌倉と中世びと」はさらっと大雑把に見て2階に降りた。
2階は【テーマ3】近世「近世の街道と庶民文化」、【テーマ4】近代「横浜開港と近代化」、【テーマ5】現代「現代の神奈川と伝統文化」となっているが、【テーマ4】近代「横浜開港と近代化」のみをしっかりと見て回った。
ここでは、日本の一大転換点となった開港前後における神奈川の近代化の諸相を紹介する。
市民革命をへて18世紀後半から急激な工業化を進めた欧米諸国は、18世紀末になるとアジアへの進出を強めた。
1853(嘉永6)年、前年にその来航が予告されていた米国東インド艦隊司令長官ペリーが、最新鋭の蒸気軍艦2艘を含む艦隊を率いて来航すると、翌年幕府は通商を拒否しつつ条約を締結した。
そして1858(安政5)年米・蘭・露・英・仏国と通商条約を締結し、神奈川(横浜)をはじめとする5港が世界へ向けて開かれることになりました。
開港後の横浜は、西洋文化をいち早く取り入れる場であるとともに、日本文化を海外へ発信する場でもあった。
ここの展示内容は、「蒸気船が導いた新たな時代」、「世界へ開かれたみなとYOKOHAMA」、「文明開化の音」、「近代化と神奈川」、「横浜正金銀行」、「横浜浮世絵」、「かながわの近代絵画」、「輸出工芸と横浜のやきもの」となっていた。
「世界へ開かれたみなとYOKOHAMA」では、下の内容を紹介していた。
安政5ヵ国条約の規定により、のちにYOKOHAMAとして知られるようになる神奈川は1859年7月1日(安政6年6月2日)に開港します。人家もまばらな砂州であった横浜は埋め立てられ、外国人が居住することが許された外国人居留地、日本人商人が店を構える日本人町、そしてその中間に官庁街がつくられ、商取引を行うことができる区域である開港場として整備されます。人、モノ、情報の交流はここ横浜を通して行われるようになったのです。
その他の展示についてはここでは省略するが、午後1時頃になっていたので、この博物館1階の回廊にある「喫茶ともしび」で、手羽元カレーを食べた。
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