「街道をゆく」で出会った「日本を代表する人物」 オホーツク街道 その9 旅の主役の米村喜男衛氏に会う 

 オホーツク文化とオホーツク人を追い求めての「オホーツク街道の旅」も、網走市立郷土博物館の見学が最後となった。

 この旅で一番見たかったモヨロ貝塚とモヨロ貝塚館については、インターネットからの資料で紹介ということになる。

 ではまず、網走市立郷土博物館からである。
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 博物館は、昭和11年11月3日、当時の社団法人北見教育会が地方教育の振興と文化の発展を図るべく、「北見郷土館」として建設・開館したもの。開館にあたっては、故米村喜男衛名誉館長(網走市名誉市民)が長年にわたり収集した考古、民族資料3,000点が提供され、それが基礎となった。昭和23年4月、網走市に移管され、網走の豊かな自然と古代から現代に至る歴史の流れを展示解説している。
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 1階と2階に展示品がありざっと眺めたが、そう印象に残るようなものはなかった。この網走での一番の宝物は故米村喜男衛氏その人だと確信する。

 司馬遼太郎の『オホーツク街道』にも、オホーツク文化やオホーツク人の歴史に関わった幾人もの傑物が登場するが、その主役級の人々のナンバーワンは、やはり「モヨロ貝塚」発見者の故米村喜男衛氏である。

 彼の「モヨロ貝塚」にかける情熱とその業績は他を圧倒している。

 『オホーツク街道』には、米村喜男衛氏の人となりが詳しく書かれていて、司馬は米村喜男衛氏をトロイ遺跡を発見したシュリーマンに例えて紹介しているが、その通りの人物である。どちらも無学で在野の学者ということも、共通点である。

 この網走市立郷土博物館の2階で小休止しながら、米村喜男衛氏を思った。
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 彼は青森県で生まれて、尋常小学校4年高等科3年の学歴で世に出て、それから小さい頃から面倒を見てもらった祖母の進言で床屋という職業を選び職人となった。

 床屋をしながら小さい頃からの夢である考古学研究者となる道を歩き、その道中でオホーツク文化最大の遺跡である「モヨロ貝塚」の発見者となった。

 この発見は、遠い時代に海を渡ってこの地に定住し、「モヨロ貝塚」を残した謎の民族の正体を探ってやろうという彼の雑草にも似た強い意思を産み、「モヨロ貝塚」の発掘が進められた。

 この発掘はやがて、北海道全域に考古学ブームを起こし、「モヨロ貝塚」ウィルスに感染した少年たちが、やがて北海道の考古学を発展させていった。


 米村喜男衛が蒔いた種は北海道全土に広がった。

 その影響を受けた司馬遼太郎のこの旅の案内人である野村崇は、明治大学で学びやがて道内有数の考古学者となった。

 また、米村喜男衛の子である米村哲英も同じく明治大学で考古学を学び、網走で父と同じ道を歩んだ。

 司馬遼太郎はこの網走で、故米村喜男衛氏に代わり、その志を受け継ぐ息子の哲英氏から「モヨロ貝塚」の案内をしてもらっている。
  モヨロ貝塚では地層上部から順番に、アイヌ墳墓や竪穴跡、擦文式土器、オホーツク式土器、後北式(続縄文)、前北式(縄文後期)、北筒式(北海道式円筒土器の略、縄文中期、前期)、網走式土器(縄文前期)が出土した。
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 これは何を意味するかというと、本州では縄文式の後、弥生式土器文化が発生したが、農耕に適さない北海道ではそのまま縄文式文化が続いたことを意味する。

 北海道が本州に比し特異なのは、弥生時代を持たず、本州にはまったく存在しなかったオホーツク文化を持ったことである。


 北海道は樺太を通して北から人や文化が渡ってきた。

 米村哲英氏の説明によれば、その大きな流れは3回あるという。
  1回目がマンモスハンター、2回目が石刃鏃文化【せきじんぞくぶんか】、3回目がオホーツク文化なのだという。

 マンモスハンター達は1万5千年程前に沿海州から陸続きのサハリンを経由し、北海道に到達した。(日本人の血の中には7%もの確立で、人類最大の旅を達成したあのマンモスハンター達の血が流れているという。)

 石刃鏃文化【せきじんぞくぶんか】は7,8千年前に同じような道を経由し、北海道に到達した。(縄文時代早期のことで、北海道東・北部に限って存在)


 そして、オホーツク文化である。

 米村喜男衛の生涯を掛けた夢、「モヨロ貝塚」を残した謎の民族の正体を探ってやろうという夢は、彼の時代では推測の息を出なかったが、現代の科学はオホーツク人の正体を突き止めることに成功した。北大研究グループーがオホーツク人のDNA解読に成功したというのだ。

 オホーツク人のルーツには諸説あるが、現在の民族ではサハリンなどに暮らすニブヒやアムール川下流のウリチと遺伝的に最も近いことがわかったというものである。
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 オホーツク人のルーツには諸説あるが、現在の民族ではサハリンなどに暮らすニブフやアムール川下流のウリチと遺伝的に最も近いことがわかったというもの。

 また、アイヌ民族との共通性も判明、同グループはアイヌ民族の成り立ちについて「続縄文人・擦紋人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられる」と推測している。



 ここで、賢明な読者の方に思い出していただきたいことがある。植物研究家の米原ふさ子さんに案内されたオムサロ遺跡の彼女との会話の内容である。

 ① オホーツク人は和人とは違う。人種的にはアイヌ人の血の重要な構成要素となった人々である。

 ② 日本人は縄文人(狩猟採取文化の人々)+弥生人(稲作文化の人々)だが、アイヌ人は縄文人(狩猟採取文化の人々)が8割+オホーツク人が2割という血の混合で構成された人々。




 これはどういうことか図示すると、こうなる。
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 オホーツク人は、サハリンとアムール川下流域の集団【ウリチ、ニブフ(ギリヤークともいう)など】と、カムチャッカ半島の集団(チュクチ、コリヤーク、イテリメンなど)が混血して出来た民族だった。


 謎はほぼ解けた、もう十分である。

 このオホーツク街道の旅は、米村喜男衛の生涯を掛けた夢、『「モヨロ貝塚」を残した謎の民族「オホーツク人」の正体を探ってやろうという思い』を僕自身の旅の中で実現して行く旅であった。

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