吉備王国へのみち その38 大原美術館分館

 本館は見どころたっぷりだった。

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 しかし、ブログではこのくらいにして、次に黄⇒で示した分館を見ることにする。

 大原美術館分館は、大原孫三郎の息子である大原總一郎の時代に建てられた。

 ここは、近代日本の絵画を展示する場所として1961年(昭和36年)に増設し、地下展示室は總一郎が亡くなったあとに増設された。

 分館は、大まかに部屋ごとに時代が分かれている。

 分館東側の展示室は近代の日本人作家の作品、分館西側の展示室は主に戦後の日本人作家の作品、分館地下1階展示室はさらに最近の作品が展示されている。

 まず、分館東側の展示室から見ていく。

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 ここで一番有名な絵は、岸田劉生の「麗子像」である。

 モデルは岸田劉生の当事10歳の娘の岸田麗子(1914-1962)で、大きなおかっぱ頭と小さな手のアンバランスな感じがとてもいい。

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 この写真は本物の岸田麗子さんの9歳の時の写真であるが、なかなか可愛い少女で、彼女をモデルに「麗子像」は出来上がった。

 次に、熊谷守一(1880年4月2日 - 1977年8月1日)の「陽の死んだ日」を紹介する。

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 熊谷守一は絵を描けなくなって収入が途絶え、妻が絵を描いてくださいと懇願する中、絵をかけないまま次男の陽を医者に掛からせることも出来ずに死なせてしまった。

 彼は幼くして死んだ息子の枕元で突然絵筆を手にとって30分ほどでこの絵を描いてしまったらしい。

 我が息子が死にそうになっているのに、その息子を救うために絵を描けなかった彼が、その息子の死を題材にして絵を描いたわけである。

 芸術家の凄さを感ぜずにはいられない作品である。

 陽を失ってから25年後、彼が67歳になった時、彼は次男だけでなく長女の「萬」も失い、その火葬の後に家に帰る様子を「ヤキバノカエリ」という絵に描いている。

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 「陽の死んだ日」に比べると、圧倒的に静かな喪失感のようなものが感じられる。

 熊谷 守一は日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられているが、作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。

 富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。

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