奈良大和路散歩(2016年の旅) その38 室生寺を歩く
仁王門は元禄時代に一度焼失し、その後長い間姿を消していたが、1965年11月に再建された。
門の両脇で構える赤と青の仁王像も、昭和に再興されたものである。
門の朱塗りも仁王像の色彩も色鮮やかで、この仁王門をくぐって中に入った。
室生寺境内マップを参照するが、室生寺の伽藍はこのようになっていて、現在仁王門を抜けて鎧坂に向かうところである。
バン字池左手に見てそのまま歩いていくと、視界に飛び込んできたのが幅の広いりっぱな石積みの階段の鎧坂である。
途中に踊り場があり上段と下段のようになっていて、古色を帯びた自然石が積み上げられた階段の様子が編み上げた鎧の様に見えることから、鎧坂と命名された。
鎧坂を上がりきると、目の前が国宝2体を含む5体の貴重な仏像を安置した金堂である。
奥の正堂部分は平安時代前期(9世紀後半)の建立であるが、鎌倉時代末期に大修理を受け、多くの部材が取り替えられている。
前の礼堂部分は江戸初期(1672年)に全面的に建て替えられている。
この金堂については、寺の住職と思われる方から丁寧に説明していただいたが、写真撮影禁止となっていたので、画像はネットから借用する。
堂内須弥壇上に向かって、左から十一面観音立像(国宝)、文殊菩薩立像(重文)、本尊釈迦如来立像(国宝)、薬師如来立像(重文)、地蔵菩薩立像(重文)の5体が横一列に並んでいて実に壮観だった。
これらの像の手前に、小さな十二神将立像(重文)が立って5体の仏像を守っていた。
この5体の仏像の中では、女人高野と呼ばれる室生寺を最もよく表した像として知られている十一面観音立像が際だって印象に残った。
お腹の部分が妊娠初期のように少し膨らんでいて、その結果1000年以上の長きにわたって女性たちの授産や安産などの願いを受け止めてきた。
仏像の専門書では、あどけない無垢の少女のようとか、女性の初々しい姿を表したかのようとか書かれているという。
金堂の次に本堂に進んだ。
本堂は入母屋造の檜皮葺きで、室生寺の密教化が進んでいた鎌倉時代後期の建立である。
この堂は灌頂堂(かんじょうどう)とも称され、灌頂という密教儀式を行うための堂で、内陣中央の厨子には如意輪観音坐像(重文)を安置し、その手前左右の壁には両界曼荼羅(金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅)を向かい合わせに掛け、灌頂堂としての形式を保持している。
金堂を見終え、野外に建つ塔として国内最小の16mほどの高さで平安時代初期の建立と伝わる、いかにも室生寺の象徴のような5重塔を見上げた。
通常の五重塔は初重から1番上の5重目へ向けて屋根の出が逓減されるが、この塔は屋根の逓減率が低く、1重目と5重目の屋根の大きさがあまり変わらない。
その他、全体に屋根の出が深く厚みがあること、屋根勾配が緩いこと、小規模な塔の割に太い柱を使用していることなどが特色である。
日本の他の仏塔では、最上部の九輪の上に「水煙」という飾りが付くが、この塔では水煙の代わりに宝瓶(ほうびょう)と称する壺状のものがあり、その上に八角形の宝蓋という傘状のものが乗っている珍しい形式である。
寺伝では、創建にかかわった僧侶修円がこの宝瓶に室生の竜神を封じ込めたとされる。
その竜神の魂のせいか、神秘的な雰囲気があたりいっぱいに漂っていた。
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