九州散歩Ⅰ その38 印山寺屋敷跡

 平戸ザビエル記念教会を見たあと、今日の平戸の旅の最後に、「印山寺屋敷跡」に向かった。
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 「印山寺屋敷跡」は赤⇓の位置にある。

 「印山寺屋敷」の名の由来は、松浦氏25代当主松浦隆信(道可)で、道可の隠居名にちなんでこう称された。

 1550年にポルトガル船が平戸に初めて入港するが、これには明の密貿易業者で倭寇の頭目でもある王直が大きく関わっている。

 王直は密貿易を仲介して財を成し、ジャンク船の船主として東シナ海に勢力をふるっていた。

 王直の根拠地の一つは薩摩坊津で、島津氏は密貿易で大いに潤っていたが、薩摩ばかりに巨利を得させてなるものかと、隆信は配下を王直へ送って接触させ、ついに王直の本拠を平戸に誘致するのに成功した。

 その対価として自らの居城を王直に与え、自らはのちのオランダ商館近くの高地に新たな城を築いて移り住んだのである。
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 王直の屋敷は、道可の隠居名の印山道可にちなんで「印山寺屋敷」と称されたが、現在は、その跡地には金光教平戸教会が建っていて、当時の面影はない。

 王直の生涯について触れる。

 彼は徽州府歙県に生まれるが、任侠の徒であったと言われ、青年の時に塩商を手がけるが失敗し明が海禁政策を行うなか葉宗満らと禁制品を商う密貿易に従事した。

 双嶼(浙江省寧波府の沖合い)港を本拠地に活動していた許棟・李光頭の配下として東南アジアや日本の諸港と密貿易を行い、博多商人と交易して日本人との信任を得る。

 1548年、密貿易を取り締まった朱紈らが双嶼を攻撃すると逃れて海賊集団を組織し、浙江省舟山諸島の烈港を本拠に徽王と称し、徐海と並ぶ倭寇の頭目となった。

 度重なる明の海禁政策を逃れ、1540年に日本の五島に来住し、松浦隆信に招かれて1542年に平戸に移り、地方官憲や郷紳らと通じ、養子や甥の王汝賢らを幹部に密貿易を拡大した。
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 明の河川や沿岸地域に詳しいために倭寇の代表的な頭目となり、明の嘉靖32年(1553年)5月に37隻を率いて太倉・江陰・乍浦等を寇し、同年8月に金山衛・崇明に侵入した。

 朱紈の死後に倭寇の取締りは一時的に弱まるが、兪大猷らが新たに赴任し、1556年には胡宗憲が浙江巡撫に就任する。

 胡宗憲が総督に就任すると、王直は上疏(じょうそ)して自らはもはや倭寇ではないので恩赦を得たいと訴え、海禁解除を主張し、自らの管理下での貿易を願い出た。

 しかし明朝の倭寇の鎮圧は本格的に開始され、1557年、王直は官位をちらつかせた明の誘降に乗って舟山列島の港へ入港した。
 明朝では王直の処遇について意見が対立していたが、1559年12月に王直は捕えられて処刑された。

 ここから、南蛮人として初めて日本に来たポルトガルのことについて触れる。

 ポルトガルは、ヴァスコ・ダ・ガマが1498年、インド航路を開拓しカリカットに到達したが、その後1510年、ゴアを完全占領、1511年、マラッカ攻略、1512年、香料諸島到着。
 さらに南シナ海に進出して民国商人と密貿易を始めるが、その過程で王直を知ったようだ。

 そして、王直の手引きで、ポルトガルは日本という貿易上の宝庫を知るが、1543年のポルトガル船の種子島漂着も王直が関係したのではないかと言われている。
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 新来のポルトガル人が、王直と違ったのはキリスト教布教が貿易と一体だったことで、例えば、鉄砲を売っても、火薬の製法は教えず、製法を知りたい隆信にこう言ったとされる。

 「この火薬御所望ならば、わが宗旨に成り給ふべし。さなくば教え難し。」(松浦家『壺陽録』)

 キリシタン嫌いの隆信は、重臣の籠手田(こてだ)左衛門安経に因果をふくめ信者にさせたのだが、籠手田左衛門は熱心な信者となり、彼が領主だった生月(いきつき)、度島(たくしま)などがザビエルが去った(1550年)後のキリシタン信仰の中心となった。

 その後、宣教師と一体となっているポルトガル商人たちは、キリシタン嫌いの松浦侯の態度に飽き、平戸を捨ててしまう。

 そのあとの平戸貿易の空白をオランダ人がうずめるのである。

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